中方(なかほう、英語: Nakahō)は、静岡県掛川市にある大字。
地理
静岡県掛川市の南部に位置する。合併前の旧大東町においては北東部に位置していた。円形のような形状の大字であるが、一部は静岡県道79号吉田大東線に至るまで突出している。西から中央にかけては山地が多く、山林とそれを開墾した茶畑が広がっている。東端も山林が多くみられる。北から南に向かって佐束川が流れており、その周囲には平地が形成されていることから、稲田が広がっている。南西には近江ヶ谷池が水を湛えている。
集落としては、大部分の領域が「中方」を形成しているが、北の一部の領域は隣接する大字である小貫などとともに「小貫」を構成している。集落は地縁血縁等の繋がりや歴史的経緯によって形成されるため[2]、大字とは範囲が異なっているためである。掛川市の自治区としては、集落としての中方は単独で中方区を形成しており[3]、集落としての小貫も単独で小貫区を形成している[3]。そのため、自治区としての中方区の範囲は、大字として「中方」[4]と住所表記される範囲とは異なっている。掛川市では大字別の人口と自治区別の人口を公表しているが[1]、前述の理由により大字としての中方と自治区としての中方区とでは人口に差異が生じる[1]。
河川
湖沼
歴史
中方と呼ばれている地は、かつては遠江国城東郡狭束郷に属しており[5]、もともとは自然村である佐束村の一部であった。その後、佐束村は高瀬村、小貫村、中方村の3村に分割された[5]。内山真龍の『遠江国風土記伝』によれば、当時の中方村の石高は691石6斗5升2合5勺であったとされる[6][† 1]。また、宗禪寺の除地が1石[6]、全體寺の除地が9畝3歩半[6]、とされている。この中方村が、のちの中方に該当する。
町村制が施行された1889年(明治22年)に高瀬村、小貫村、中方村は再び合併することになり、この地は静岡県城東郡佐束村の一部となっていた。佐束村は土方村と合併することになり、この地は1955年(昭和30年)より城東村の一部となった。1968年(昭和43年)4月1日、高瀬と小貫の2集落により上佐束区が、中方と岩滑の2集落により下佐束区が、それぞれ自治区として設置された[7]。
さらに大浜町と城東村が合併し、1973年(昭和48年)4月よりこの地は大東町の一部となった[5]。のちに大東町が掛川市、大須賀町と合併することになり、2005年(平成17年)4月よりこの地は掛川市の一部となった。2006年(平成18年)4月より各集落ごとに単独の自治区を形成することになり、高瀬区、小貫区、中方区,岩滑区の4区が発足した[7]。
地名の由来
中方は、かつては「中保」[5][6]と表記されていた。内山真龍の『遠江国風土記伝』によれば、「中」は上中下の中[6]、「保」はかつての行政単位の保に因んでいるという[6]。
沿革
- 1871年 - 城東郡が静岡県に移管。
- 1871年 - 城東郡が浜松県に移管。
- 1876年 - 城東郡が静岡県に移管。
- 1889年 - 静岡県城東郡高瀬村、小貫村、中方村が合併して佐束村を設置。
- 1896年 - 静岡県佐野郡、城東郡が合併して小笠郡を設置。
- 1955年 - 静岡県小笠郡佐束村、土方村が合併して城東村を設置。
- 1973年 - 静岡県小笠郡大浜町、城東村が合併して大東町を設置。
- 2005年 - 静岡県掛川市、小笠郡大東町、大須賀町が合併して掛川市を設置。
世帯数と人口
2024年(令和6年)11月末日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
事業所
2021年(令和3年)現在の事業所数と従業員数は以下の通りである[8]。
大字 |
事業所数 |
従業員数
|
中方 |
21事業所 |
297人
|
小・中学校の学区
公立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[9]。
交通
道路
施設
その他
郵便
- 郵便番号:437-1402[4](集配局:遠江大東郵便局)
警察
警察の管轄区域は以下の通りである[20]。
番地 |
警察署 |
交番・駐在所
|
全域 |
掛川警察署 |
大東交番
|
消防
消防の管轄区域は以下の通りである[21]。
番地 |
消防署・分署 |
消防団分団
|
全域 |
南消防署 |
大東第五分団
|
脚注
註釈
- ^ 今日では「遠江国風土記伝」と表記するのが一般的であるが、1900年に発行された『逺江國風圡記傳』では「逺江國風圡記傳」との表記を用いているため、同書に関する出典表記はそれに倣った。
出典
関連項目
外部リンク