中島 秋挙(なかじま しゅうきょ、安永2年〈1773年〉 - 文政9年〈1826年〉7月25日)は、江戸時代後期の俳人。名は惟一。字は子徳。号には曙庵などもある。編著に「小殿原」(ことのはら)や「はつかりつか」などがある[1]。
経歴
安永2年(1773年)、三河国碧海郡熊村(現在の愛知県刈谷市)に生まれた[2]。刈谷藩藩士であり町奉行を務めていた中島佐守の長男である[2]。幼名は大之丞であり、後に衛輔に改めている[2]。享和2年(1802年)、30歳の時に官職から退き、弟の中島治右衛門に家督を譲った[2]。
隠居後の秋挙は剃髪して俳諧の道に入ると、岡崎の鶴田卓池の紹介で名古屋の井上士朗の門を叩いた[2]。肥料商で高弟となった鶴見東雅などから援助を受け、碧海郡小垣江村の曙庵に暮らしたが、各地を旅することが多かった[2]。秋挙は妻を娶らず、北は奥州、西は須磨や明石から中国地方などを旅した[2]。
文化8年(1811年)3月には広瀬惟然の句集『惟然坊句集』を発刊した[3]。文化9年(1812年)4月から5月には師の井上士郎の看病を行い、『病床日記』や『朱樹翁終焉記』を書いている[3]。文政9年(1826年)7月25日、悪性腫瘍が原因で死去[2]。享年54。墓所は刈谷市の十念寺[4]。
関連地点
刈谷市小垣江町には秋挙の居宅だった曙庵跡がある[4]。刈谷市の松秀寺の境内には秋挙の奉献灯籠がある[4]。刈谷市の市原稲荷神社の境内には、天保10年(1839年)に門人らによって建立された秋挙の句碑があり、「夜わたしの 今に声あり 華さかり」と刻まれている[5]。
脚注
- ^ 『日本人名大辞典』講談社、2001年
- ^ a b c d e f g h 『刈谷の俳人・中島秋挙』p. 4
- ^ a b 『刈谷の俳人・中島秋挙』p. 5
- ^ a b c 『刈谷の俳人・中島秋挙』p. 1
- ^ 『刈谷の俳人・中島秋挙』p. 3
参考文献
- 谷沢靖「俳人秋挙の略伝と『曙庵句集』の翻刻紹介」『かりや』第1号、1980年
- 谷沢靖・永田友市『西三河の俳人・中島秋挙』西村書房、1982年
- 三ツ松悟『刈谷の俳人・中島秋挙』刈谷ふるさとガイドボランティアの会、2019年
外部リンク