上田 薫(うえだ かおる、1920年(大正9年)5月17日 - 2019年10月1日[1])は、日本の教育学者。東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長を務めた。「社会科の初志をつらぬく会」名誉会長。
大阪府生まれ。兵庫県の旧制中学校から、旧制武蔵高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に進むが、1943年12月に仮卒業となり学徒出陣し、南京に送られる。敗戦により国民党軍の捕虜になった後、1946年1月日本に帰国した。1946年9月に文部省に入省し、新教育の小学校社会科の学習指導要領と教科書の作成にあたった。続いて「道徳教育のための手引書要綱」を作る。 1951年9月名古屋大学教育学部、東京教育大学教育学部、立教大学文学部で教員生活を送り、最後は都留文科大学学長を務めた。長く信濃教育会教育研究所所長を兼任。
教育哲学、教育方法学を研究、講義しつつ、この間一貫して教育現場の研究実践にかかわり続けた。
旧制中学の同年生は、「小柄な方のやせ型でおとなしい勤勉な印象であり、ゴム毬野球は名手であった」と書いている[2]。
2019年10月1日、老衰で死去[1]。99歳没。
西田幾多郎の長女・弥生の長男であり、父操は裁判官であった。『西田幾多郎歌集』(岩波文庫)を編集している。
千輪浩は義父。三女春野が夫人である。
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