三遊亭 圓之助(さんゆうてい えんのすけ)は落語家の名跡。現在、名跡は空いている状態である。
初代とされている橘家圓之助は本来、3代目である。初代橘家圓太郎と2代目三遊亭圓生の門に確認されている。
- 江戸
- 上方
初代
初代(3代目)橘家 圓之助
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本名
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中村 代次郎
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生年月日
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1843年
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没年月日
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1918年11月3日
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出身地
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日本
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師匠
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初代三遊亭圓朝
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名跡
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1. 三遊亭春朝(1858年 - 1861年) 2. 橘家圓之助(1861年 - 1884年)
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活動期間
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1858年 - 1884年
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家族
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朝寝坊志らく(息子)
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所属
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三遊派
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本名は中村代次郎(1843年(天保14年)(逆算) - 1918年(大正7年)11月3日)。ただし、亭号は「三遊亭」ではなく「橘家」である。
三遊亭圓朝の最古参の弟子で1858年、9年ころに入門し春朝を名乗った。1861年ころに初代圓之助と改名し声色や芝居噺をやっていたが実績はほぼ皆無で1884年ころに三遊派の五厘(事務や斡旋の仕事を担当する者)を勤めていた。
実子に朝寝坊志らく(中村徳太郎)
3代目
三代目 三遊亭 圓之助(さんゆうてい えんのすけ、1929年4月25日 - 1985年4月26日)は、落語家。出囃子は『舌出し三番叟』。本名∶高橋 力。
経歴
東京都文京区大塚生まれ、元は建具職人。TBSラジオの「しろうと寄席」に出演をきっかけに玄人になる。
1956年6月に三代目三遊亭小圓朝に入門し、「三遊亭朝三」を名乗る。1959年9月、二ツ目昇進。1965年9月、真打昇進時と共に三代目三遊亭圓之助を襲名。
1980年6月脳溢血で倒れて半身不自由になり、修善寺リハビリテーションで1年間リハビリを行った。その後、公私にわたり師をサポートしていた弟子の三遊亭朝三を1984年5月に不慮の交通事故により失っている。しかし、同年8月11日の谷中・全生庵で行われた圓朝祭の「奉納落語」で『三人旅』を演じ、復帰へ向けてアピールした[1]。その後は独演会などの高座に上がっていたが、1985年4月に国立演芸場で演じた「紺屋高尾」が最後の高座となり、同26日、心筋梗塞のため、東京都練馬区の北町病院で死去した[2]。56歳没。
芸歴
人物
NHKの銀河ドラマ『姉さんシリーズ』にも出演した。
前座・二ツ目に貧乏暮らしをしたことからエピソードも多い、俗に「貧乏の圓之助」と呼ばれる。
『長屋の花見』『小言念仏』『大工調べ』など長屋物の噺を得意とした。没後に出版された著書に、エッセイをまとめた『はなしか稼業』がある。
家族
弟子
出演
書籍
- 『はなし家稼業』(平凡社、1993年)(平凡社ライブラリー、1999年)
上方
橘家 圓之助
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橘ノ圓都一門の定紋「丸に九枚笹」
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本名
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今堀 勝弘
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別名
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堀京司 山乃凡々
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生年月日
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(1934-02-10) 1934年2月10日(90歳)
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出身地
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日本
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師匠
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橘ノ圓都
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活動期間
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1953年 - ?
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活動内容
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上方落語 音楽ショウ 漫才 漫談
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備考
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上方落語協会会員(1957年 - ?)
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橘家 圓之助(たちばなや えんのすけ、本名∶今堀 勝弘、1934年(昭和9年)2月10日 - )は、元落語家。
1953年9月に橘ノ圓都に入門し圓之助。のちに落語を廃業し1967年に音楽ショウ「浮世わたるカルテット」に堀京司の名で参加。
そこも離れ、漫才師になり山乃凡々の名で梅乃凡々と組む。解消後に漫談に転じたが、そこも辞め芸能マネージャーとなる。ラジオでの2代目桂ざこばの発言によるとその後はうどん屋になったという。
註
- ^ 弘文出版「落語」1984年第21号 P108-P109より。
- ^ 朝日新聞1984年11月27日夕刊
出典