二代目 三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、文化3年(1806年、逆算) - 文久2年8月12日(1862年9月5日))は、落語家。本名、尾形 清治郎(清次郎とも)または盤蔵。
本所は竪川に出生。当初は袋物渡世を営んでいた。父は尾形源蔵。
最初は初代三升亭小勝の門下で三升屋しげ次といい声色師。
初代三遊亭圓生の門下で初代竹林亭虎生、三遊亭花生を経て初代立花屋圓蔵となった。
天保12年(1841年)ころ、二代目立川焉馬の後ろ盾で二代目三遊亭圓生襲名。
「よつもくの圓生」と呼ばれた。その理由には諸説あるが、一説によると、始め四谷に住み頭部の形が木魚に似ているところから「四谷(よつや)の木魚(もくぎょ)頭」でこう呼ばれたという。後に湯島の大根畑に移った。
『圓朝全集』の中では、『雨夜の引窓』『畳水練』が圓生作で、他にも『累双紙』も圓生の作だという。落咄の作は二代目立川焉馬編『昔噺 当世推故伝』(1848年)などでも知られる。怪談咄も得意とし『雪駄直し長五郎』『佐倉宗五郎』なども演じた。芸に対して熱心だったことが三遊亭圓朝の『名人くらべ』に伝えられている。
晩年は病がちになり不如意な生活を送ったが、その際、圓朝は怨みを忘れて手当てを贈った。没後も遺言に従い、三遊派が勢いを盛り返した慶応元年(1865年)3月21日(初代圓生の命日)に本葬を行なった。三遊亭圓志は養子。盲目の娘は、終生圓朝が世話をしたという。
なお圓生の名跡は圓朝の弟子の初代三遊亭圓楽が襲名した。
弟子
出典
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