ヴィーシュホロド(ウクライナ語: Вишгород, ラテン文字転写: Vyshhorod)は、ウクライナのキーウ州ヴィーシュホロド地区(ウクライナ語版、英語版)にある市である[1]。同地区の中心地であり、人口は32,396人(2021年推計)[2]。1962年に都市型集落、1968年に市となった。歴史学的文献にはヴィシゴロド、ヴィシェゴロド等と表記しているものもある。
地理
ドニエプル川の右岸・キーウ貯水池(キーウ湖)の南端に接する。キーウ市と南で隣接している。
歴史
中世
ルーシの年代記の中に初めてヴィーシュホロドの名が挙がるのは946年のことである。また、ビザンツ皇帝のコンスタンティノス7世(905年? - 959年)も、ヴィーシュホロドはキーウからドニエプル川を16ベルスタ遡上したところにあるという主旨の記述を残している。キエフルーシ時代のヴィーシュホロドは高い丘の上に位置し、キーウの北方に対する前哨として要塞化されていた。『原初年代記』の中には、946年に聖オリガの領地であったこと[3]、980年ごろにはウラジーミル1世の300人の側室がいたこと[4]、1078年からヤロポルク・イジャスラヴィチ(イジャスラフ1世の子)の領地となったこと[5] などの記述がある。
1155年、ユーリー・ドルゴルーキーは、ヴィーシュホロドに息子のアンドレイ・ユリエヴィチを置いたが、アンドレイは慣れ親しんだウラジーミル・クリャージマへと去った。その際にヴィーシュホロドの[注釈 1]聖母のイコンを運び出した。これが今日の有名なイコン、ウラジーミルの聖母である。また、ヴィーシュホロドでは少なからぬ数の攻防戦が行われた。例えば1093年、1136年、1146年の三度、ポロヴェツ族が街を包囲している。
1240年、モンゴルのルーシ侵攻によって勃発したキエフの戦いの際に、ヴィーシュホロドはキーウとともに戦禍を被った。ヴィーシュホロドは破壊され、以降、年代記から記述が消えることとなった。石造りの建築物の残骸や、高い土塁、クルガンなどが、往時のヴィーシュホロドを偲ばせるのみであったという。1523年の修道院の記録の中に、再びヴィーシュホロドの名が現れるが、そこでは貧しく人口の希薄な村落として記述されている。
近代・現代
史跡・記念碑
姉妹都市
脚注
注釈
- ^ アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(96頁)には、アンドレイが持ち帰ったのは「キエフの聖物」とある。
出典
参考文献