ヴァルター・ジモンス (Walter Simons 、1861年 9月24日 - 1937年 7月14日 )は、ドイツ の裁判官 、政治家 。
ヴァイマル共和政 期にライヒ裁判所 長官を務め、在任中に大統領代行 に就任した。
生涯
青年期
1861年にライン州 (ドイツ語版 ) エルバーフェルト で、ユグノー 教徒のルイ・ジモンスと妻ヘレーネ・ジモンスの息子として生まれる[ 1] 。父ルイはシルク製造工場の経営者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ジモンス=ケーラー (ドイツ語版 ) の孫で、大叔父にはプロイセン王国 司法大臣ルートヴィヒ・ジモンス (ドイツ語版 ) がいる。母ヘレーネはゾーリンゲン 長官ゴットリープ・キルマン (ドイツ語版 ) の孫娘で、甥には建築家のヴァルター・キルマン (ドイツ語版 ) がいる。
エルバーフェルトのギムナジウム を卒業したジモンスは、1879年にアビトゥーア に合格する。その後はシュトラースブルク大学 、ライプツィヒ大学 、ボン大学 で法学・経済学・歴史学を学び、法学者ルドルフ・ゾーム (ドイツ語版 ) から多大な影響を受ける。1882年に司法試験に合格し、ドイツ帝国陸軍 に徴兵される。兵役終了後の1888年にボンとゾーリンゲンで判事補佐を務め、1890年にエルナ・リューレと結婚し、3男4女をもうけた[ 1] 。
法律家
1893年にフェルバートで裁判官を務め、1897年から1905年にかけてマイニンゲン の地方裁判所判事を務めた。1905年にキール の高等裁判所判事となるが、間もなくベルリン の帝国司法院 (ドイツ語版 ) に異動となった[ 1] 。1907年に国際法担当の枢密顧問官に任命され、国際会議にドイツ代表として何度か出席する。
1911年には法務顧問として外務省に出向し、1918年のブレスト=リトフスク条約 の締結交渉に参加した後、10月15日に帝国宰相 マクシミリアン・フォン・バーデン の法務顧問(国際法担当)に任命される。連合国 との講和交渉が開始されると、ジモンスはマクシミリアンの側近として、ビスマルク憲法 を改正して帝国議会 の権限強化を図ると同時に、皇帝 ヴィルヘルム2世 の退位に賛同して内務省と新憲法制定について協議した[ 1] 。
ドイツ革命 が発生した11月には外務省法務部長に任命され、1919年の際にはドイツ代表団の一員として、外務大臣 ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ に随行してヴェルサイユ条約 交渉に参加した[ 1] 。しかし、ジモンスは条約調印に反対して辞任し、ドイツ産業連盟 (ドイツ語版 ) 理事に就任した[ 2] 。1920年には、1903年から1907年にかけて役員を務めていた国家主義 組織・汎ドイツ同盟 (ドイツ語版 ) から脱退した[ 1] 。
外務大臣
1920年6月25日にコンスタンティン・フェーレンバッハ 内閣に外務大臣として入閣し、ドイツ代表としてスパ会議 (ドイツ語版 ) 、ロンドン会議 (ドイツ語版 ) に参加した[ 1] 。1922年1月から5月にかけて、上シレジア地方の住民投票 (ドイツ語版 ) についてポーランド第二共和国 と交渉した。また、同年にハンス・フォン・ゼークト 、ヴィルヘルム・ゾルフ と共同で政治クラブSeSiSoクラブ (ドイツ語版 ) を創設し、ベルリンのホテル・カイザーホーフ を拠点にリベラル教育を受けた中産階級向けのサロン を開催した[ 1] 。SeSiSoクラブは1930年代に解散するが、会員の多くはゾルフ・サークル (ドイツ語版 ) を形成して反ナチ運動 に参加した[ 3] 。また、1920年代には大モルトケ を輩出したモルトケ家の資産管理団体委員長を務めた[ 1] 。
ライヒ裁判所長官
大統領代行ジモンス
1922年10月16日、ジモンスは最高裁判所 であるライヒ裁判所 長官に任命された。在任中の1925年2月28日に大統領 フリードリヒ・エーベルト が死去し、3月12日にはヴァイマル憲法 第51条の規定により大統領代行に就任した[ 1] 。同月29日に実施された大統領選挙 では過半数を獲得した候補者がいなかったため、第2回投票の際にはジモンスが大統領候補に浮上したが、彼は立候補を拒否している。5月12日に第2回投票で当選したパウル・フォン・ヒンデンブルク が大統領に就任したため、大統領代行の職務を離れた。
1926年にはライプツィヒ大学 の国際法名誉教授となり、同年にドイツ国際法協会会長に就任した。11月には「ドイツ司法の危機」と題した声明を発表し、右派勢力を抑圧するドイツ社会民主党 とドイツ民主党 を「ドイツ国家の信頼性の危機」と批判した。また、フーゴ・ジンツハイマー (ドイツ語版 ) 、ロベルト・ケンプナー (ドイツ語版 ) 、フリッツ・バウアー (ドイツ語版 ) 、エルンスト・フレンケル (ドイツ語版 ) など共和国裁判官協会 (ドイツ語版 ) に所属する裁判官が社会民主党員として階級闘争優先の判決を出していることを批判した。ジモンスの批判に対し、司法大臣グスタフ・ラートブルフ は「下からの社会民主主義的階級闘争よりも有害な、上からの階級闘争」と述べている[ 4] 。このため、ジモンスは左派勢力の反感を買い、社会民主党支持者から襲撃された。
1928年にドイツ国営鉄道 の取締役員任命を巡りヒンデンブルク、首相ヘルマン・ミュラー と対立した。また、政府による司法の干渉に反発し、翌1929年にライヒ裁判所長官を辞任した[ 1] 。
晩年
ライヒ裁判所長官ジモンス
ジモンスはルーテル教会 での活動を通して福音主義協議会議長(1925年-1936年)や福音教会委員長(1930年)などを歴任し、ルーテル派に強い影響力を持っていた。また、1920年にはベルリン政治大学を創設し、1929年から1930年にかけてライプチヒ大学の国内法・国際法教授を務めた[ 1] 。1930年にはヨハン・ゼバスティアン・バッハ を顕彰するノイエ・バッハ協会会長に就任した。
1933年にナチ党の権力掌握 が行われて以降はノイエ・バッハ協会とルーテル教会の活動を通して政治にアプローチし、1935年にはバッハ生誕250周年の記念声明の中で、ナチ党 やアビシニア危機 (英語版 ) に直面するファシスト党 、ファランヘ党 に対して外交政策の支援を述べている[ 1] 。
1937年7月14日にポツダム で死去し、遺体はヴィルマースドルファー・ヴァルトフリートホーフ・シュターンスドルフ (ドイツ語版 ) に埋葬された。息子には政治学者のハンス・ジモンス (ドイツ語版 ) がおり、娘の一人はナチス・ドイツ で憲法学の指導者となったエルンスト・ルドルフ・フーバー と結婚し、孫には神学者のヴォルフガング・フーバー がいる。
脚注
^ a b c d e f g h i j k l m “Biografie Walter Simons (German) ”. Bayerische Nationalbibliothek. 26 January 2015 閲覧。
^ Moritz Julius Bonn : So macht man Geschichte. Bilanz eines Lebens . List, München 1953, S. 247.
^ Eberhard von Vietsch: Wilhelm Solf - Botschafter zwischen den Zeiten
^ Daniel Siemens: Die »Vertrauenskrise der Justiz« in der Weimarer Republik , S. 154. In: Die »Krise« der Weimarer Republik , hg. v. M. Föllner u. R. Graf, Frankfurt/M. 2005 (Campus); Benjamin Lahusen: Aus Juristen Demokraten machen . In: Die Zeit 5. November 2009
参考文献
ホルスト・グリュンダー (ドイツ語版 ) : Walter Simons als Staatsmann, Jurist und Kirchenpolitiker . Schmidt, Neustadt an der Aisch 1975 (= Bergische Forschungen, 13).
エルンスト・ルドルフ・フーバー : Walter Simons 1861–1937 . In: Wuppertaler Biographien . 9. Folge, Wuppertal 1970 (= Beiträge zur Geschichte und Heimatkunde des Wuppertals, 17), S. 61–79.
Martin Otto: Simons, Walter. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 24, Duncker & Humblot, Berlin 2010, ISBN 978-3-428-11205-0 , S. 441–443 (電子テキスト版 ).