ロベール1世 (ラテン皇帝)

ロベール1世
Robert I
ラテン皇帝
在位 1221年3月25日 - 1228年

出生 1201年
死去 1228年
アカイア公国、クレモツィ城
配偶者 ボードゥアン・ド・ヌーヴィルの娘
家名 クルトネー家
父親 ピエール2世・ド・クルトネー
母親 ヨランド・ド・フランドル
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ロベール1世(ロベール1せい、フランス語:Robert I, 1201年 - 1228年)またはロベール・ド・クルトネー(Robert de Courtenay)は、ラテン帝国皇帝(在位:1221年 - 1228年)。ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネーヨランド・ド・フランドルの息子[1]

生涯

ピエール2世・ド・クルトネーが死去したことがフランスで知られるようになったとき、長男ナミュール侯フィリップはラテン皇帝位の継承を放棄し、ラテン皇帝位を手に入れようとしていた弟ロベールを支持した[1]。ラテン帝国に向かう途中、ロベールは1220年秋から1221年初めまでハンガリーに滞在し、義兄アンドラーシュ2世のもてなしをうけた。ヴィラール・ド・オヌクールもロベールに随行していた可能性がある。ロベールとアンドラーシュ2世は、エピロス専制侯テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに対抗するため同盟を結んだ。アンドラーシュ2世とその継承者ベーラは、ブルガリアとの国境までロベールと同行した。そこでロベールはアンドラーシュ2世の娘アンナ・マーリアとブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世との結婚の媒をした[2]

1221年3月25日にラテン皇帝として即位したが、最初に1224年にテッサロニキをエピロス専制侯テオドロス1世に奪われた[3]ローマ教皇ホノリウス3世はカトリックのラテン帝国の状況を憂慮し、テッサロニキ防衛のための十字軍の招集を呼びかけたが、反応はなかった[3]。同年、ポイマネノンの戦いにおいてロベールはヨハネス・ドゥーカス・ヴァタツェスに敗れた[4]

この敗北の後、ロベールはニカイア帝国皇帝となったヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスと和解することを余儀なくされた。ロベールは先の皇帝テオドロス1世ラスカリスアンナ・アンゲリナの娘エウドキアと結婚することを約束した[5]。すでに以前にロベールはエウドキアと婚約していた。最終的に交渉が失敗した背景は不明であるが、ゲオルギオス・アクロポリテス英語版によると、コンスタンティノープル総主教マヌエル1世が宗教上の理由で取りやめさせたという。ロベールのマリーはテオドロス1世ラスカリスと結婚していた。したがって、ロベールはすでにテオドロス1世の義兄であったが、義理の息子となることはできなかった[6]。ともあれ、ロベールはすぐにエウドキアとの婚約を解消し、あるブルゴーニュ人の婚約者であったヌーヴィル家の娘と結婚した。そのブルゴーニュ人は陰謀を企て、ロベールをコンスタンティノープルから追い出した。ロベールにコンスタンティノープルに戻るよう説得する教皇に支援を求めるため、ロベールはローマに逃亡したが、1228年初めにコンスタンティノープルに戻る途中、モレアスで死去した[3]

脚注

  1. ^ a b Nicol 1993, pp. 12–13.
  2. ^ Bárány 2016, pp. 71–74.
  3. ^ a b c Nicol 1993, p. 13.
  4. ^ Tricht 2013, p. 1000.
  5. ^ Venning 2006, p. 567.
  6. ^ Akropolites 2007, pp. 157–158.

参考文献