1824年6月24日マインツに生まれる。父はプロイセン軍医のJohann Benjamin Müller、母はEleonoreである。父が1833年ザールルイへ転任したため、レオポルトはそこのギムナジウムに通った(1836年から1842年)。
1842年ボン大学の医学校に入学したが、再び父の転任に伴い1844年にベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム内科外科学校(medizinisch-chirurgischen Friedrich Wilhelms-Institut)に移る。ここはペピニエール(Pépinière)という別名で知られており、卒業後に一定年数を軍医として働く代わりに有給で医学教育が受けられる医学校であった。1847年2月にベルリンの大学病院シャリテの研修医となり、5月28日に内科および外科のドクトルを取得(学位論文は『脳脊髄液』)。1848年4月1日軍医となり、1849年に外科医および産科医の国試に合格。軍医少尉としてシュヴェートへ赴く。1850年オーストリアとの間で緊張が高まり総動員令が出たため第9戦地病院に配属。翌年に動員令が解除されてポツダムへ赴く。1853年にはフリードリヒ・ヴィルヘルム内科外科学校の講師となる。1855年シャリテの上医となり、眼科医の資格を得る。ミュルレルはプロイセンに800名ほどいる軍医として、この時まではごくありきたりのキャリアを重ねていた。
ミュルレルは音楽や文化交流にも深い関心を示した。ハイチ時代にはレカイのルネサンス劇場(Theatre la Renaissance)の設立代表者として活動しており、また1861年にはポルトープランスに新設された音楽学校の試験委員を務めている。ベルリンではシュテルン合唱団の理事となっており、また日本からは雅楽器を持ち帰り雅楽についての講演を行っている。日本時代には1873年にフォン・ブラントとともにドイツ東洋文化研究協会を設立し、フォン・ブラントが清国大使として転出した後の1874年から1875年には会長を務めている。
Scheer, Christian (2006). “Dr. med. Leopold Müller (1824 - 1893) : Chef des Militärsanitätswesens der Republik Haiti, Leibarzt des Kaisers von Japan, Leitender Arzt des königlich preußischen Garnisonlazaretts in Berlin ; Eine nichtalltägliche Biographie aus der Geschichte des Invalidenfriedhofes.”. In Wolfgang Voigt & Kurt Wernicke. Stadtgeschichte im Fokus von Kultur- und Sozialgeschichte : Festschrift für Laurenz Demps. Berlin: trafo verlag. pp. 285-325. ISBN978-3896265739