レオナルド 熊(レオナルドくま、本名:井上 千蔵 (いのうえ せんぞう)、1935年〈昭和10年〉6月27日 - 1994年〈平成6年〉12月11日)は、日本のコメディアン・俳優。石倉三郎と組んだコントコンビ「ラッキーパンチ」「コント・レオナルド」で人気を博した。
人物と芸風
北海道樺戸郡新十津川町の出身。地元高校を中退後、役者を志すため単身で上京する。しかし実際のところ中々芽が出ることが無く苦労し、十余年地方巡業で地道に活動した。その後浅草に定着し、ストリップ劇場で幕間コントをしながら副業で小料理店を経営していた。しかし1973年、38歳の時に持病の結核が悪化してしまい、治療に専念するためおよそ5年間にわたる長期入院[注釈 1]をすることになった。当時の芸名は 北海の熊→ 熊田にげろうで活動していた。
熊のことを『師匠』と仰いだ弟子も少なくなかったが、本人の性格や金銭面での諸事情を抱えていた人物だった。また人間関係や見解の相違あってのコンビ解消・再結成を多く繰り返して来ており、相方は25人ほど交代した。ちなみに熊とコンビを結成して年数長く活躍したのは石倉三郎である[注釈 2]。また持病の結核が中々完治せず、仕事を休むことになるなど健康面でも不安を抱えていた。
1979年、病気療養中にホープ[注釈 3]の紹介もあって、俳優出身であり、どつき漫才を売りに活動していた「チャップリンズ」を解散したばかりの石倉三郎と「ラッキーパンチ」[注釈 4]を結成し初デビューを果たした。しかし初めは売れていたものの、体調不良気味の熊が寝込み、舞台に続けて穴をあける事態となった。それが要因で仕事が減り、コンビ仲も悪くなり1年弱で解散する[注釈 5]。この熊とのコンビ解消を機に石倉は一旦、芸能界から引退した。
石倉との「ラッキーパンチ」を解散した直後から弟子であるブッチー武者と「熊田うつぞう・にげろう」を経て初代「コント・レオナルド」を結成する。同時に自身の芸名を「レオナルド熊」に改名した。しかし、命名者であるポール牧に事前許可もなく無断で改名した為、破門された。
コンビ・芸名を変えて新たに活動を始めたが、弟子である武者とのコンビ仲は良くなかった。武者が師匠・熊からの執拗ないじめが元でノイローゼ(神経症)になる深刻な状況の中『花王名人劇場』に出演する直前、コント中の舞台で転倒事故が発生。武者はこの事故で骨折・負傷して休演せざるを得なくなり、ホープと澤田隆治が仲裁に入る形でコンビは解消となった。代わりに芸能界を引退して千葉県富津市にあるマザー牧場で勤務していた石倉を呼び戻し、1981年より二代目「コント・レオナルド」を再結成させた。
若手が中心だった漫才ブームの中で、比較的年輩である熊[注釈 6]が政治・経済・時事問題を不条理コントで茶化すスタイルは当時異色の存在となり、これが受けて人気を得た。
1983年に出演したサントリービール「ナマ樽」のテレビコマーシャルで、熊が発した「いかにも一般大衆が喜びそうな」は、この年の流行語にもなり[1]、広く知られた顔にもなった。
コメディアンとして人気を得たのと共に俳優としても活躍し、テレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ・人間椅子』(1984年、テレビ朝日)では、美女が座る椅子を愛する職人・黒川純一を演じており、怪優としての側面も見せていた。
しかし、石倉とのコンビ仲は以前の「ラッキーパンチ」と同様に良くなかった。自ら脚本・演出を手掛ける熊にとって『コント・レオナルド』は、最初から「自分の名を冠した自身の持ち物」という意識を常に持ち続けており、強いこだわりとプライドがあった[注釈 7]。石倉はその熊に対して我慢が出来ずに愛想を尽かし、熊も石倉の酒癖の悪さを批判した。
コンビとしての人気は安定していたが、喧嘩別れをする形で1985年10月に再びコンビを解消・絶縁してしまう。ちなみに二代目「コント・レオナルド」としての活動期間は4年間であった[注釈 8]。
その後は石井光三と「劇団七曜日」を立ち上げ、若手お笑い系役者[注釈 9]の登竜門となる。またピン活動の傍ら、その場で若手を相方にコンビを組んで地道に芸能活動を続けたが、肝心である芸の切れ味が鈍ってしまったこともあり[注釈 10]、次第に芸能界から距離を置く様になる。
1994年の10月に、末期の膀胱癌と診断される。後にホープ・マギー司郎など「田端グループ」の仲間達による「癌祝いの会」が開かれた。
その約2か月後の12月11日、家族と共に焼肉を外食し終えた直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で急性心不全により死去した[2]。59歳没。葬儀にはコンビ解消以来、顔を合わせることがなかった石倉も参列した。墓所は東京都杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所。
弟子
ほか
家族
最後の妻は元女優の中川加奈。息子はレオナルド小熊名義で子役出演の後、ギタリスト井上"KB"幸法として活動。長女は一般人。
出演番組
テレビドラマ
出演映画
CM
ほか
著書
- 『ヤッ、熊が来た―いかにも一般大衆にウケる本』祥伝社 1983年
- 『レオナルド熊の鬼退治』集英社 1984年
- 『レオナルド熊のおんな高座』小学館 1984年
ディスコグラフィ
- ※河島英五、橋幸夫も熊と同じ時期に同楽曲をリリースした「競作ソング」のひとつ。
脚注
注釈
- ^ 更に同じ時期に当時の妻とは別れる事になってしまったため、生活保護を受給していた時期もあった。
- ^ 石倉は「ラッキーパンチ」(1979年 〜 1980年)の1年弱と、二代目「コント・レオナルド」(1981年 〜 1985年)の4年間熊と一緒であったため、合わせて5年間コンビで活躍したことになる。
- ^ 本名の城後光義名義で、熊の弟子を務めていたこともあった。
- ^ テレビへ出演する為の便宜上の関係でポール牧の門下入りをし、その際に「ラッキー熊」を命名されている。
- ^ 相方の石倉の話によると「熊は持病の結核でしょっちゅう倒れるんですよ。その度に飯が食べれなくて疲れちゃいましてね」と語っている。コンビ解散の際に熊は「あんた、このままだと死んじゃうぜ? もうやめなよ。俺もやめるわ」と話したという。
- ^ 石倉三郎とコンビを再結成した1981年当時、熊は既に46歳で芸歴をはじめ下積みも豊富なベテランであり、2人との掛け合いも絶妙であった。
- ^ 熊は石倉に許可無く別の弟子を相方にして「コント・レオナルド」名義で内職営業をして私物化したり、さらに石倉に断りも無く割りを多く取っていた。こういう行動が明るみに出て来て石倉は、熊に対して不信感や険悪感を抱く様になった。
- ^ コンビ解消後、熊は単独でコメディアン・俳優業を継続した。石倉も俳優・タレントとして現在も活躍中である。
- ^ 主な劇団員にはピンクの電話、デンジャラス、菅原大吉、磯野貴理子、近藤芳正、田根楽子などがいる。
- ^ 再婚をした妻と副業を始めたり、元々病弱であるという体調理由もあった。
- ^ 当番組の人気コーナーであった「各駅停車路線バスの旅」の3代目レポーターをミスターちんと共に担当していた。
- ^ ラッキー熊名義で出演。
- ^ コントレオナルドとして出演。
- ^ コント・レオナルドとして出演。
- ^ レオナルド熊が主演した。
- ^ 高見知佳、藤島親方(元大関・貴ノ花利彰)と共演。
- ^ 伊藤つかさと共演。
- ^ 相方の石倉三郎と共演したものもあった。
- ^ 1994年に急逝後の翌年、当時子役で活動していた長男の小熊がイメージキャラクターを引き継いだ。
出典
参考文献
- 著者インタビュー(日刊ゲンダイ 2010年04月21日付)
関連項目