マンハッタンのローワー・イースト・サイドにあるアルフレッド・E・スミス知事ハウス[4]で幼少期を過ごし、3歳からピアノの演奏を始めた。13歳のとき、家族とブロンクス区へ引っ越した。ルーサー・ヴァンドロスの姉であるパトリシア・ヴァンドロスは、ボーカル・グループのクレスツに所属していた 1958年には、楽曲ビルボード・ホット100で 2位となるヒット曲「16 Candles」をだしている。ヴァンドロスが 8歳のとき、父親が病死した。[5]ヴァンドロスは、高校生グループ Shades of Jade のメンバーとして一度ハーレムのアポロ・シアターでも演奏した。ヴァンドロスは、シアター・ワークショップにも所属して、シングル「Only Love Can Make a Better World」と「Listen My Brother」を発表し、1969年11月のセサミストリートに出演した。
ヴァンドロスが次のヒットにクレジットされるのは、1972年のロバータ・フラックのアルバムである。また、パティ・ラベル・ファンクラブの創設者でもある。デロアス・ホールの 1973年のアルバムで、ヴァンドロスは自身が書いた曲「Who's Gonna Make It Easier for Me」を歌っている。他に、楽曲「In This Lonely Hour」も提供している。デヴィッド・ボウイと共作した楽曲「ファスシネイション」(Fascination) は、1974年9月に発表されたボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』に収録され、ヴァンドロスもバック・ボーカルとして参加している。ヴァンドロスが書いた曲「Everybody Rejoice」は、1975年のブロードウェイ・ミュージカル『ザ・ウィズ』と、その映画化『ウィズ』で聞くことができる。
70年代後半、ヴァンドロスは 5人組グループであるルーサーのメンバーとして、Cotillion Records[6]と契約し、比較的成功したシングル「It's Good for the Soul」、「Funky Music (Is a Part of Me)」、「The Second Time Around」と、アルバム『Luther』(1976年)、『This Close to You』(1977年)を発表したが、アルバムはセールス・チャートに入るほどは売れなかった。Cotillion Records がグループとの契約を切った後、ヴァンドロスはアルバムの版権を買い戻した。
Greg Diamond's Bionic Boogie というディスコ・バンドの曲「Hot Butterfly」で、ルーサーはリード・ボーカルを歌った。ルーサーは、Soiree というバンドでも「You Are the Sunshine of My Life」のリード・ボーカルを歌い、ジャクソン・ブラウンやシャロン・レッドのアルバムでバック・ボーカルを務めた。ルーサーがリード・ボーカルを歌った Mascara LP というグループの曲「See You in L.A.」は、1979年に発表された。
1980年 - 1990年/全盛期
長い下積み時代が続くルーサー・ヴァンドロスは、フランス系イタリア人プロデューサーのジャック・フレッド・ペトラスが生んだポップ・ダンス・アクトのチェンジに、歌手として迎えられた。1980年のヒット「A Lover's Holiday」と「The Glow of Love」、「Searching」でヴァンドロスはボーカルを務めた。ヴァンドロスは「The Glow of Love」を気に入っていて、後の 2001年に Vibe Magazine から受けたインタビューでは「私がこれまで人生において歌った中で、もっとも美しい曲」と語っている。ヴァンドロスは、チェンジの 1981年のアルバム『Miracles』も当初は参加予定だったが、金銭面でペトラスと折り合いがつかず、参加しなかった。ヴァンドロスのその判断は同年のエピック・レコードとの契約につながったが、『Miracles』やペトラスの新しいダンス・アクト The B. B. & Q. band にもバック・ボーカルとしては参加した。その忙しい同じ年、ソロとしてはデビュー・アルバムとなる『Never Too Much』を発表した。ヴァンドロス自身が書いた曲「Never Too Much」は、R&B チャートで 1位を記録した[7]。またバート・バカラックとハル・デヴィッド作のバラード「A House Is Not a Home」(オリジナルはディオンヌ・ワーウィック)もヒットした。この頃より、ベーシストのマーカス・ミラーと共同制作するようになり、ミラーはヴァンドロスの数多くの作品でプロデュースを務めた。『Never Too Much』は、ヴァンドロスの高校時代のクラスメイトであるナット・アダレイ・ジュニアがアレンジを行った[8]。
1980年代にヴァンドロスは成功した R&B アルバムを発表し続けながら、1982年の Charme というグループにゲスト・ボーカルとして参加するなどの、セッション・ミュージシャンとしての仕事を続けた。ヴァンドロスの初期のアルバムのほとんどは、ポップ・チャートよりも、R&B チャートで大きなヒットとなった。ヴァンドロスは 1980年代に 2曲のビルボード R&B チャートでのナンバー 1 ヒットを発表していて、1986年の「Stop to Love」と、グレゴリー・ハインズとのデュエットの「There's Nothing Better Than Love」である[9]。ヴァンドロスは、アレサ・フランクリンのゴールド・ディスクであるアルバム『Jump to It』のプロデューサーを務めた。そして、次作となる 1983年の『Get It Right』のプロデューサーも務めたが、期待はずれに終わった。1983年には、ディオンヌ・ワーウィックのアルバム『How Many Times Can We Say Goodbye』のプロデュースも務め、デュエットで参加したタイトル曲はホット 100で 27位(R&B チャートで 7位、アダルト・コンテンポラリで 4位)を記録した[10][7]。
1985年、ルーサー・ヴァンドロスはテレビ番組『スター・サーチ』で、出場者のジミー・サルベミーニ(Jimmy Salvemini)の才能に目をつけた。ヴァンドロスは、サルベミーニのアルバムを制作した。アルバムが完成した直後である 1986年1月12日、ヴァンドロスの運転する車に、ジミー・サルベミーニと兄のラリーが乗っている状態で衝突事故が発生した。事故により、ラリー・サルベミーニは亡くなり、ヴァンドロスとジミー・サルベミーニは生き残った。サルベミーニ家はヴァンドロスに対して訴訟を起こし、結果的に70万ドルをヴァンドロスがサルベミーニ家へ支払うことで示談となった。サルベミーニのアルバム『Roll With It』は、翌年発売された。
1989年のコンピレーション・アルバム『The Best of Luther Vandross... The Best of Love』に収録されたバラード「Here and Now」は、ビルボード・ポップ・チャートで初めてのトップ10ヒットとなり、最高6位まで上昇した[7]。そして、第33回グラミー賞で最優秀男性R&B歌唱賞を受賞し、初めてのグラミー賞受賞となった[7]。
2003年に、ヴァンドロスはアルバム『Dance With My Father』を発表した。そのタイトル曲は、亡き父との幼い頃にダンスした思い出がテーマになっているもので、共作者のリチャード・マークスとともに、第46回グラミー賞で最優秀楽曲賞を受賞した[7]。また、この曲は同時に 4回目となる最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞した。アルバムは、Billboard 200(総合アルバムチャート)で初めてとなる 1位を記録した[7]。グラミー賞で初の最優秀R&Bアルバム賞に輝き、またビヨンセとのデュエット「The Closer I Get to You」(ダニー・ハサウェイ&ロバータ・フラックのカバー)も最優秀R&Bデュオ/グループ賞を受賞した。アルバムからの 2nd シングル「Think About You」は、2004年のアーバン・アダルト・コンテンポラリ・ソングで 1位に輝いた。
ヴァンドロスは糖尿病と高血圧を患っていて、それらは遺伝で引き継がれたものだった。2003年4月16日、ヴァンドロスはマンハッタンの自宅で、脳卒中にて倒れた。倒れたときは、アルバム『Dance With My Father』にボーカルを録音し終えたばかりだった。アルバムの制作は、1989年から交流が続いているポップ・スターのリチャード・マークスが手伝った。『Dance With My Father』は、ヴァンドロスにとって最初で最後の初登場 1位記録作品となった[7]。このアルバムは、アメリカ合衆国だけで 300万枚売れ、タイトル曲は 2004年にグラミー賞の最優秀楽曲賞を獲得した[7]。
2004年のグラミー賞では、ヴァンドロスはビデオテープで最優秀楽曲賞の受賞コメントを話した。「僕がさよならを言うときでも、永遠ではないでしょう。なぜなら僕は愛の力 (Power of Love) を信じているから。」テレビ番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』での例外を除くと、ヴァンドロスは二度と人前に現れることはなくなった。