現在のルビャンカ刑務所(2012年撮影)
ルビャンカ (ロシア語 : Лубянка 、英語 : Lubyanka)は、現在のロシア連邦保安庁 (FSB)本部庁舎、過去においてはソ連国家保安委員会 (KGB)本部及びKGB管轄の刑務所 として使われた、モスクワ のルビャンカ広場 にある黄色い煉瓦 造りの大きな建物である。
本部の近所に子供向け商品の百貨店「ジェーツキー・ミール 」(子供の世界)がある為、「ジェーツキー・ミールの隣」という隠語 で呼ばれることがある。
建物
帝政ロシア時代
1897年 にアレクサンドル・イワノフ [要曖昧さ回避 ] が設計、1940年 - 1947年 にアレクセイ・シューセフ が増築を行っている。
このネオバロック様式 の建物は、もともと1898年 に全ロシア保険会社 の本社として建てられ、その美しい寄せ木張りの床と淡い緑色の壁で有名だった。重厚さは否定され、この巨大建造物は荘重な印象を避けた。パラディオ様式 とバロック建築 の特徴である、角の隅を圧倒する大きさの、極めて詳細な切妻や中央開廊 の様な物を避け、古典主義的な正面玄関は繰り返し避けるよう言われた。正面は三本の蛇腹状の束で水平線を強調した。時計は中央に設置され、正面玄関の構成物の一つとなった。
ソ連時代
ロシア革命 により、ルビャンカは政府によってチェーカー 本部として使う為に接収 された。ソビエト体制下でのロシアの冗談では、「建物の地下から、シベリアが見える」(地下にあった劣悪な収容所を婉曲してシベリアと言った)ので、ルビャンカはモスクワで一番高い建物だと言われていた。大粛清 が行われている期間、ルビャンカは、内務人民委員部 の人員増加の為、ますます窮屈となっていた。
1983年 改装中のルビャンカ。左半分が低い。
1940年 に、ソ連 で有名な建築家シューセフは階層を増やし、周囲の建物を取り壊して、ルビャンカの大きさを二倍にするよう依頼された。シューセフの設計は新ルネサンス様式 を強調したものだった。しかし、戦争が勃発したのとその他の問題で、左正面のみ1940年代に増築されたに過ぎなかった。この左右非対称の状態は、1983年 にユーリ・アンドロポフ がシューセフの設計案で、左右対称の状態にするよう提案するまで変わらないままだった。
ヨシフ・スターリン の死後にルビャンカでの尋問は中止されたが、ルビャンカは圧政の象徴として位置づけられ続けた。グラスノスチ により赤色テロ の詳細が暴露されると、大粛清犠牲者の家族らによる人権団体メモリアル により、ソ連初の強制収容所であるソロヴェツキー強制収容所 跡地から取った石で作ったソロヴェツキーの石 が1990年 10月30日 に設置された。その位置は、ジェルジンスキー広場 を挟んでジェルジンスキー像の正面に位置していた。
また、1991年のソ連崩壊 までは、建物の前をソビエト連邦政府 に無許可で撮影すると警察に逮捕されることもあった[ 1] 。
ジェルジンスキー像
ルビャンカの正面にあったチェーカー の創設者、フェリックス・ジェルジンスキー の像は、1958年 に建立された。ソ連の秘密警察及び対外謀報部を管轄する組織の名称が幾度となく変更されたにも拘らず、その本部はずっとこの建物のままだった。この組織の長官のラヴレンチー・ベリヤ からユーリ・アンドロポフ までこの建物の三階で、ジェルジンスキーの像を見下ろす形となった。
1991年 のソ連8月クーデター 失敗の直後、共産主義の象徴だったジェルジンスキー像は撤去された。
受刑者・収監者
シドニー・ライリー やラウル・ワレンバーグ は抑留され、拷問にかけられて尋問された。またモスクワ裁判 の被告人たちはルビャンカの刑場で処刑されている。
ボルシェヴィキ は、「社会主義的人間(Socialist man)、ソビエト的人間(ソビエト・マン、Soviet Man) という新たな人間類型の創出を目指し[ 2] [ 3] [ 4] 、1930年代後半までに、ドイツ人や日本人の捕虜 、ポーランド人、韓国人、中国人、政治囚、ユダヤ人を含む「民族主義者」などが、モスクワのルビャンカ刑務所で医学実験に用いられた[ 5] 。
1940年にはタタール人 の「ムスリム民族共産主義」革命家ミールサイト・スルタンガリエフ がルビャンカ監獄で銃殺刑に処せられた[ 7] 。
第二次世界大戦 後はアドルフ・ヒトラー の側近だったローフス・ミシュ やハルピン特務機関長を務めていた陸軍中野学校 初代校長秋草俊 が収監されている。
ルビャンカの地下室の囚人は、アレクサンドル・ソルジェニーツィン は著作「収容所群島 」で、ルビャンカ収容所の状態を卓越して表していると考えたという。
ボリス・サヴィンコフ (社会革命党)、オシップ・マンデリシュターム (詩人)、ヴワディスワフ・アンデルス (ポーランド軍人)らも収監された。
ソ連崩壊以後
KGBの解散後、ルビャンカは後にロシア連邦保安庁 (FSB)本部となり、加えて、KGB博物館が大衆に公開された(ただし、見学には事前の許可が必要)。
1999年 11月11日 にルビャンカで火災が発生した。4人のFSB職員が怪我を負ったが、怪我は比較的軽かった。火事は後に電気配線の欠陥だと調査の結果分かった。
2010年 3月29日 早朝、庁舎近くにある地下鉄 ルビャンカ駅 で女性による自爆テロ 事件が発生した(モスクワ地下鉄爆破テロ (2010年) 参照)。
2013年 、10月革命 以降の赤色テロにより殺害された致命者 らを顕彰する教会の建造がスレテンスキー修道院 により許可され、10月革命100周年に当たる2017年 に殉教者懺悔者のためのルビャンカ教会 として完成した。その場所は、赤色テロの象徴であるルビャンカの隣である。
脚注
注釈
出典
^ 地球の歩き方編集室『ソ連'90~'91版 地球の歩き方』ダイヤモンドビック社、1991年。
^ Gulnaz Sharafutdinova , The Afterlife of the 'Soviet Man': Rethinking Homo Sovieticus, Bloomsbury USA Academic, 2023.
^ ANDREW M. DENNY , The Soviet Man, The Military Engineer Vol. 44, No. 297 (January-February, 1952), pp. 32-36 , Society of American Military Engineers.
^ Slava Gerovitch,“New Soviet Man” Inside Machine: Human Engineering, Spacecraft Design, and the Construction of Communism, Osiris Vol. 22, No. 1, The Self as Project:Politics and the Human Sciences (2007), pp. 135-157 : The University of Chicago Press
^ Vadim J.Birstein, The Perversion of Knowledge: The True Story of Soviet Science, Cambridge MA: Westview Press, 2001, pp.127-31.
^
山内昌之 『スルタンガリエフの夢―イスラム世界とロシア革命』東京大学出版会 〈新しい世界史:2〉、1986年。ISBN 4130250663 。 NCID BN00807362 。 ,岩波現代文庫 2009
参考文献
外部リンク
座標 : 北緯55度45分39秒 東経37度37分42秒 / 北緯55.76083度 東経37.62833度 / 55.76083; 37.62833