■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート
ラトロイ・ホーキンス(LaTroy Hawkins , 1972年12月21日 - )は、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリー出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
1991年のMLBドラフトでミネソタ・ツインズから7巡目(全体180位)指名され、6月7日に契約。この年は傘下のルーキー級ガルフ・コーストリーグ・ツインズで11試合に登板し、4勝3敗・防御率4.75だった。
1992年はルーキー級ガルフ・コーストリーグとアパラチアンリーグのルーキー級エリザベストン・ツインズでプレー。ルーキー級エリザベストンでは5試合に登板し、0勝1敗・防御率3.38だった。
1993年はA級フォートウェイン・ウィザーズで26試合に登板し、15勝5敗・防御率2.06だった。
1994年はA+級フォートマイヤーズ・ミラクルとAA級ナッシュビル・エクスプレス、AAA級ソルトレイク・バズでプレー。AAA級ソルトレイクでは12試合に登板し、5勝4敗・防御率4.08だった。
1995年4月20日にツインズとメジャー契約を結び、4月29日のボルチモア・オリオールズ戦で先発起用されメジャーデビュー。1.2回を7安打7失点と打ち込まれ、メジャー初黒星を喫した。その後は2試合に登板したが、3連敗を記録し、5月11日にAAA級ソルトレイクへ降格。AAA級ソルトレイクでは22試合に登板し、9勝7敗・防御率3.55だった。9月16日にメジャーへ再昇格。9月18日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦のダブルヘッダー2試合目で先発し、5.2回を10安打4失点だったが、10点の援護もあり、メジャー初勝利を挙げた。この年は6試合に登板し、2勝3敗・防御率8.67だった。
1996年2月9日にツインズと1年契約に合意。開幕から先発ローテーションに加わったが、7試合の登板で1勝1敗・防御率8.20と結果を残せず、5月14日にAAA級ソルトレイクへ降格した。降格後はAAA級ソルトレイクで20試合に登板し、9勝8敗・防御率3.92だった。9月8日にメジャーへ再昇格したが、登板のないままシーズンを終えた。
1997年3月3日にツインズと1年契約に合意。3月26日にAAA級ソルトレイクへ異動し、そのまま開幕を迎えた。AAA級ソルトレイクでは14試合に登板し、9勝4敗・防御率5.45だった。6月17日にメジャーへ昇格。昇格後はシーズン終了までローテーションを守り、20試合に登板。6勝12敗・防御率5.84だった。
1998年3月2日にツインズと1年契約に合意。この年はチーム最多の33試合に先発し、前年を上回る7勝を挙げたが、チームワーストタイの14敗[2]を記録し、防御率は5.25だった。
1999年3月2日にツインズと2年契約を結んだ。この年もチーム最多の34試合に先発。初の二桁勝利となる10勝を挙げたが、前年と同じくチームワーストタイの14敗[3]を記録、防御率は6.66だった。
2000年はマーク・レッドマン、ジョー・メイズのメジャー定着もあり、リリーフに転向。クローザーとして66試合に登板し、2勝5敗14セーブ・防御率3.39だった。
2001年2月20日にツインズと2年契約(2003年の球団オプション付き)を結んだ。この年もクローザーとして登板していたが、救援失敗が続き、終盤はクローザーの座をエディ・グアダードに奪われた。この年は62試合に登板し、1勝5敗28セーブ・防御率5.96だった。
2002年はクローザーにグアダードが指名され、ホーキンスはセットアッパーへ転向した。この年は65試合に登板し、6勝0敗・防御率2.13だった。オフの10月28日にツインズが球団オプションを行使した[4]。
2003年はチームトップで自己最多の74試合に登板し、9勝3敗2セーブ・防御率1.86だった。オフの10月27日にFAとなった。
2003年12月3日に小さい頃からファンだった[5]シカゴ・カブスと総額1100万ドルの2年契約(2006年の選手側選択オプション付き)を結んだ[6][7]。
2004年はセットアッパーとして開幕を迎えたが、6月にクローザーのジョー・ボロウスキーが故障で離脱。代役としてホーキンスがクローザーに起用された。この年は前年の74登板を上回る、チーム最多の77試合に登板。5勝4敗25セーブ・防御率2.63だった。
2005年もボロウスキーが故障のため、クローザーとして登板していたが、5月に入ると救援失敗が続き、セットアッパーへ配置転換された。カブスでは21試合に登板し、1勝4敗4セーブ・防御率3.32だった。
2005年5月28日にジェローム・ウィリアムズ、デビッド・アーズマとのトレードで、サンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍[8]。リリーフとしてリグレー・フィールドで登板した際は、スタジアム全体からカブスファンの"Hawkins sucks"(「ホーキンス最低」)という合唱が起こった。移籍後は4試合に登板していたが、6月17日に尺骨神経の故障で15日間の故障者リスト入りした。7月4日に復帰。復帰後はセットアッパーとして定着し、ジャイアンツでは45試合に登板。1勝4敗2セーブ・防御率4.10だった。オフの10月27日にホーキンスが選択権を持つ、プレイヤー・オプションを行使した[9]。
2005年12月6日にスティーブ・クライン(英語版)とのトレードで、ボルチモア・オリオールズへ移籍した[10]。
2006年は開幕からリリーフとして定着し、60試合に登板。3勝2敗・防御率4.48だった。オフの10月30日にFAとなった。
2006年12月5日にコロラド・ロッキーズと350万ドルの1年契約(2008年の相互選択オプション付き)を結んだ[11][12]。
2007年は開幕からセットアッパーとして起用されていたが、4月24日に右肘の故障で15日間の故障者リスト入りした[13]。5月22日に復帰[14]。この年は62試合に登板し、2勝5敗、防御率3.42だった。セットアッパーとして契約したが、4月に故障で離脱したこともあり、ロッキーズが低年俸での契約を求めたため、オフの10月30日に球団側のオプションを破棄した。ホーキンスは「ロッキーズに戻りたい」と話していた[15]が、ホーキンス側もオプションを破棄し、FAとなった。ロッキーズは1年契約を提示していたが、「戻る気はない」とオファーを断った[16]。
2007年12月27日にニューヨーク・ヤンキースと375万ドルの1年契約を結んだ[17][18]。
2008年の開幕当初は、1990年代後半のヤンキース黄金時代を支えた外野手のポール・オニールがつけていた番号で準欠番扱いとなっていた背番号21をつけていた(スプリング・トレーニング時にはモーガン・エンスバーグが着用していたがオニールに配慮し辞退)[19]。そのため、ホーキンスの登板時にファンがブーイングや野次を飛ばしたり、オニールの名前を呼ぶなどの事態が生じたため、4月16日に背番号を22へ変更した[20]。この年はクローザーにマリアノ・リベラ、右のセットアッパーにカイル・ファーンズワースが在籍していたが、前年オフにルイス・ビスカイーノが移籍。ビスカイーノの代役として期待されていたが、33試合に登板し、1勝1敗・防御率5.71と結果を残せず、7月26日にDFAとなった。
2008年7月30日にマット・クシックとのトレードで、ヒューストン・アストロズへ移籍した[21]。移籍後はセットアッパーとして24試合に登板し、2勝0敗1セーブ・防御率0.43だった。オフの10月31日にFAとなったが、11月7日にアストロズと350万ドル+出来高の1年契約で再契約した[22]。
2009年開幕前の3月に、第2回WBCのアメリカ合衆国に選出された[23]。
シーズンでは、前年と同じくセットアッパーとして開幕を迎えたが、4月下旬にクローザーのホセ・バルベルデが故障で離脱したため、クローザーへ転向。バルベルデが復帰した6月からはセットアッパーに復帰した。この年は65試合に登板し、1勝4敗11セーブ・防御率2.13だった。オフの11月6日にFAとなった。
2009年12月16日にミルウォーキー・ブルワーズと総額750万ドル+出来高の2年契約[24]を結んだ[25][26]。
2010年も開幕からセットアッパーとして登板していたが、5月9日に右肩の故障で15日間の故障者リスト入りし、6月8日に60日間の故障者リストへ異動した[27]。7月29日に復帰し、復帰後は5試合に登板していたが、8月12日に右肩の故障で再び15日間の故障者リスト入りした[28]。その後はいくつかのMRI検査を行い[29]、8月22日にMRIの結果から手術を行うことを決定[30]。8月27日に手術を行い、残りのシーズンを欠場することとなった[31]。この年は故障で18試合の登板にとどまり、0勝3敗・防御率8.44だった。
2011年は前年の手術の影響で、3月27日に15日間の故障者リスト入りした。4月21日に復帰[32]。この年は52試合に登板し、3勝1敗・防御率2.42だった。オフの10月30日にFAとなった。
2011年12月8日にロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムと300万ドルの1年契約を結んだ[33]。エンゼルスには同年クローザーを務めた若手のジョーダン・ウォルデンが在籍しているが、ジェリー・ディポートGMは「経験豊富なクローザーのひとりとして期待している」と話した[34]。
2012年もセットアッパーとして開幕ロースター入りしたが、5月7日に右手小指の故障で15日間の故障者リスト入りし[35]、6月9日に復帰。この年は48試合に登板し、2勝3敗1セーブ・防御率3.64だった。オフの10月29日にFAとなった。
2013年1月31日にニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ[36]。前年クローザーを務めたフランク・フランシスコが故障で離脱したこともあり、3月29日にメッツとメジャー契約を結んだ。その後はリリーフに定着し、8月からクローザーとして起用された。この年は2004年以来の70試合登板となる72試合に登板し、3勝2敗13セーブ・防御率2.93だった。オフの10月31日にFAとなった。
2013年11月22日に古巣のロッキーズと225万ドルの1年契約(2015年・225万ドルの球団オプション付き[37])を結んだ[38][39]。
2014年はジェイソン・ジアンビ、ラウル・イバニェスに次ぐ現役3番目の年長選手となった[40]。前年クローザーを務めたレックス・ブラザーズがセットアッパーに復帰し、ホーキンスはクローザーを務めることになった。シーズン最終登板となった9月27日のロサンゼルス・ドジャース戦では、史上12人目となる通算1000登板を果たした[41]。この年は57試合に登板し、4勝3敗23セーブ・防御率3.31だった。オフの10月31日にロッキーズが225万ドルの球団オプションを行使した[42]。
2015年シーズンは、それまでMLB現役最高齢選手だったジアンビ、イバニェスが引退したことにより、現役最高齢選手となった[43]。
2015年7月28日、ホセ・レイエス、ミゲル・カストロ、マイナー選手2名とのトレードで、トロイ・トゥロウィツキーとともにトロント・ブルージェイズへ移籍した[44]。ブルージェイズには、全30球団の選手で最年少であるロベルト・オスーナが所属しており、ホーキンスは全30球団の選手で最年長であるため、最年少選手と最年長選手が同時に所属する事となった[45]。
8月5日のツインズ戦で移籍後初セーブを記録し、これによりメジャー史上13人目の全30球団からセーブを挙げた投手となった[46]。ブルージェイズでは18試合に登板して防御率2.76・FIP2.77を記録し、移籍前よりも安定したピッチングを見せた。シーズントータルでは、年齢と同じ42の試合でマウンドに登り、3勝1敗3セーブ・防御率3.26という成績だった。ALCS敗退後の10月25日に自身のインスタグラムで現役引退を表明した[47]。
2016年9月に第4回WBC予選のブラジル代表コーチを務めた[48]。
5 デービー・ジョンソン
この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
Lokasi Pengunjung: 3.148.108.134