ユワス(モンゴル語: Yuwas、? - 1306年)とは、13世紀末から14世紀初頭にかけてモンゴル帝国(大元ウルス)に仕えたアス人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では玉哇失(yùwāshī)と記される。
概要
ユワスの父のエレク・バートルは元来カフカース山脈北麓に住まうオセット人の一人で、モンケ(後の第4代カアン)によるカフカース征服時に「国主」のハンクスに従ってモンゴル帝国に帰順した[1]。モンゴル高原に移住したエレク・バートルはオゴデイ・カアンの命によってケシクテイ(宿営)に入ったが、同時期に「国主」ハンクスの子のアダチも宿営に入っており、エレク・バートルはアダチのノコル(側近)として抜擢されたのではないかとみられる[1]。その後もエレク・バートルはアダチと基本的に行動を共にし、モンケ・カアンの南宋領四川親征、帝位継承戦争におけるアリクブケ討伐、李璮の乱鎮圧などに従軍した。四川侵攻時には游兵として重慶方面まで進出し、現地で野生の虎に遭遇した際には馬から下りて虎を組み討ちにし、口に手を入れて舌を抜いた上で佩刀でこれを仕留めたという逸話が残されている[1]。李璮の乱鎮圧後はそれまでの功績により「本軍千戸」とされ、今度は南宋への侵攻に加わった。しかし、襄陽の陥落後、長江沿岸諸城を降す中で南宋の将軍洪福が一度偽って投降することでエレク・バートルを酒宴に誘い、エレク・バートルが酔った隙を突いてこれを殺してしまった。また、その息子イェスデルも間もなくして揚州攻めの最中流れ矢に当たって戦死してしまった[2]。
エレク・バートルのもう一人の息子でイェスデルの弟がユワスで、ユワスは父と兄が相継いで亡くなると父の地位を継承して「アス(阿速)軍千戸」となった。父の立場を受け継いで南宋平定にも加わり、戦後には巣県の2052戸を与えられている[3]。至元13年(1276年)に中央アジアで「シリギの乱」が勃発すると、大都にも近い応昌ではこれに呼応してコンギラト部のジルワダイが叛乱を起こし、叛乱鎮圧のため出陣したユワスはジルワダイの将のシラチャルを捕虜とする功績を挙げた[4]。
その後、カラコルムの諸王とシラが叛乱を起こしたので、ユワスは北安王ノムガンに従ってこれを討った。追撃の最中オルホン川に至ると、舟がなかったため馬に乗ったままこれ渡り、敵軍の多くを捕虜とした。また、この時の戦いで北安王ノムガンは敵軍の捕虜となってしまったことがあったが、ユワスは諸王ヨブクルとともにこれを追ってアルタイ山脈を越えてノムガンを奪還し、この功績によりユワスは白金50両・鈔2500貫を与えられて定遠大将軍・前衛親軍都指揮使に進んだ。なお、『元史』の玉哇失伝はこの事件の年次を記していないためどの時点で起こった事件かについては諸説あるが、村岡倫は至元21年に起こった事件ではないかと推測している[5][6][7][8]。
至元24年(1287年)、ナヤンの乱が勃発すると、ユワスはクビライが直々に指揮する親征軍の前鋒を務め[9]、「ブルグトゥ・ボルダク(不里古都伯塔哈)」の地にて10万と号するナヤン軍と激突した。ユワスは敗走したナヤン軍を追うことでシラムレンに至り、そこでナヤンを捕虜とした。その後もタブタイ・金家奴率いるナヤン軍残党を追撃し、グイレル河の戦いでこれを討った[10]。
至元29年(1292年)、キプチャク軍団長のトトガクとともにアルタイ山脈(金山)に進出しカイドゥ配下の3千戸を捕虜とする功績を挙げ、続いてキルギス地方(現在のトゥヴァ共和国)に侵攻するよう命じられた。以後、至元30年(1293年)から大徳元年(1297年)にかけて、ユワスやトトガクら大元ウルス軍はカイドゥ軍とイビル・シビル地方(オビ川流域一帯、現在の西シベリア平原)において数年にわたって戦闘を繰り広げることとなる(イビル・シビルの戦い)[11]。
当初、ユワスはモンゴル高原駐屯軍を指揮する皇太子テムルの指揮下に入ったが、クビライの死後テムルがオルジェイトゥ・カアンとして即位すると、代わりに派遣されてきたココチュの指揮下に入った。更に、カイドゥの下からドゥルダカ、ヨブクルらが亡命してくると、彼等と協力してカイドゥ・ウルス軍と戦うこととなった。ユワスらは大徳元年(1297年)よりアルタイ山脈を越えてカイドゥ配下の「バアリン部の地(八隣之地)」を攻め[12]、アルイ・シラス(Alui Siras)の地に進出した[13]。ユワス軍はグユク家のトクメ率いる3万の軍団とシラス河で、それぞれ相対したユワスはシラス河でグユク家のトクメ率いる3万の軍団と相対したが、射撃を得意とする兵300を選抜して隘路を守り、矢の斉射によってトクメ軍を遂に撤退に追い込んだという。一連の戦闘の功績により、ユワスは鈔1万5千緡・金織段30匹を下賜されている[14]。
その後、カイシャン(後の武宗クルク・カアン)の指揮下にあってカイドゥとの戦いにも活躍した(テケリクの戦い)[15]。
ユワスは大徳10年(1306年)5月に亡くなり、死後は息子のイキレテイ(亦乞里歹)、更にその息子のバイジュ(拝住)が地位を継承していった[16]。
脚注
- ^ a b c 赤坂2010,157-158頁
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「玉哇失、阿速人。父也烈抜都児、従其国主来帰、太宗命充宿衛。歳戊午、従憲宗征蜀、為游兵、前行至重慶、戦数有功。嘗出猟遇虎于隘、下馬搏虎、虎張吻欲噬之、以手探虎口、抉其舌、抜所佩刀刺而殺之。帝壮其勇、賞黄金五十両、別立阿速一軍、使領其衆。従世祖征阿里不哥、又従親王哈必失征李璮、倶有功、賜金符、授本軍千戸。従下襄陽、又従下沿江諸城、宋洪安撫既降復叛、誘其入城宴、乗酔殺之。長子也速歹児代領其軍、従攻揚州、中流矢卒」
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「玉哇失襲父職、為阿速軍千戸。従丞相伯顔平宋、賜巣県二千五十二戸」
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「只児瓦歹叛、率所部兵撃之、至懐魯哈都、擒其将失剌察児、斬于軍、其衆悉平」
- ^ 『新元史』や『蒙兀児史記』などは「ノムガンが捕虜になった」点を重視して「シリギの乱」の最中の事件であるとする。一方、村岡倫はこの事件の前に「ジルワダイの乱」鎮圧について言及されていることに注目し、「ジルワダイの乱」の時点でノムガンは既にシリギらの捕虜になっているのであって、「シリギらによるノムガン捕縛」を「ジルワダイの乱鎮圧」の後に置くことはできないと指摘した。また、村岡倫は従来ノムガンが捕虜の身を脱して大元ウルスに帰還したのは至元21年であるとする説にも疑問を呈し、『集史』「ジョチ・ハン紀」に「トダ・モンケ即位時(至元17年)の協議によってノムガンの釈放が決められた」とあることや、至元19年(1282年)にノムガンの王号が「北平王」から「北安王」に改められていることに注目してノムガンが大元ウルスに帰還したのは至元18年(1281年)頃のことではないかと述べる。その上で、玉哇失伝に見られる「一時捕虜となったノムガンがユワスらによって助けられた」事件はノムガンがジョチ・ウルスから解放された後に起こった事件であり、従来「シリギの乱以来、始めてノムガンが大元ウルスに帰還した年」と考えられてきた至元21年は、「ノムガンが2度目の捕虜となってしまった所をユワスらに助けられた」時のことであると論じた(村岡1999,18-20頁)。
- ^ 松田1983,34頁
- ^ 村岡1985,326-328頁
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「諸王和林及失剌等叛、従皇子北安王討之、至斡耳罕河、無舟、躍馬渉流而渡、俘獲甚衆。時北安王方戦失利、陥敵陣中、玉哇失従諸王薬木忽児追至金山、王乃得脱帰。賞白金五十両・鈔二千五百貫、改賜金虎符、進定遠大将軍・前衛親軍都指揮使」
- ^ 吉野2008,27頁
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「諸王乃顔叛、世祖親征、玉哇失為前鋒。乃顔遣哈丹領兵万人来拒、撃敗之。追至不里古都伯塔哈之地、乃顔兵号十万、玉哇失陥陣力戦、又敗之、追至失列門林、遂擒乃顔。帝嘉其功、賜金帯・只孫・銭幣甚厚。乃顔餘党塔不歹・金家奴聚兵滅捏該、従大軍討平之。既而哈丹復叛于曲連江、追撃其軍、渡河而遁」
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「又与海都将八憐・帖里哥歹・必里察等戦于亦必児失必児之地、戦屡捷」
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝では「カイドゥの将バアリン(海都将八憐)」とあたかも一人の武将かのように言及するが、これに対応する『国朝文類』巻26句容郡王世績碑は「八隣之地」と記しており、明らかに武将でなく部族を指すものと解釈すべきである(劉2012,205頁)。
- ^ この時の戦場について、『国朝文類』巻26句容郡王世績碑は「阿雷河」、『元史』巻132列伝19玉哇失伝は「撒剌思河」と記し、一見関係のない地名のように見える。しかし、『集史』「ナイマン部族志」には「ココ・イルティシュ(=イルティシュ川)」に隣接する地名として「アルイ・シラス」という地名を挙げており、「阿雷河」「撒剌思河」はともにイルティシュ川に近接する地名であったと考えられる(劉2012,205頁)。
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「成宗時在潜邸、帝以海都連年犯辺、命出鎮金山、玉哇失率所部在行。従皇子闊闊出・丞相朶児朶懐撃海都軍、突陣而入、大破之。復従諸王薬木忽児・丞相朶児朶懐撃海都将八憐、八憐敗。海都復以禿苦馬領精兵三万人直趨撒剌思河、欲拠険以襲我師。玉哇失率善射者三百人守其隘、注矢以射、竟全軍而帰。帝嘉之、賜鈔万五千緡・金織段三十匹。海都・朶哇以兵来襲、撃走之」
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「武宗鎮北辺、海都復入寇、至兀児禿、玉哇失敗之、獲其駝馬器仗以献。時札魯花赤孛羅帖木児所将兵為海都困於小谷、帝命玉哇失援出之。帝喜、謂諸将曰『今日大丈夫之事、捨玉哇失其誰能之、縦以黄金包其身、猶未足以厭朕志』。武宗南還、命玉哇失後従、敵懼莫敢近、因留之戍辺。賜以金察剌二、玉束帯・渾金段各一、仍賜秫米七十石、使為酒以犒其軍。後海都子察八児等遣人詣闕請和、朝廷許之、遂撤辺備、玉哇失乃還。帝録其功、賜鈔五万貫、進鎮国上将軍、仍旧職」
- ^ 『元史』巻132列伝19玉哇失伝,「大徳十年五月、晝寝于衛舎、不疾而卒。子亦乞里歹襲。亦乞里歹卒、子拝住襲」
参考文献
- 赤坂恒明「モンゴル帝国期におけるアス人の移動について」『中国国境地域の移動と交流』有志舎、2010年
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
- 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第24/25合併号、1985年
- 村岡倫「オルダ・ウルスと大元ウルス:「カイドゥの乱」・「シリギの乱」をめぐって」『東洋史苑』第52/53号、1999年3月
- 吉野正史「ナヤンの乱における元朝軍の陣容」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊、2008年
- 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
- 劉迎勝『西北民族史与察合台汗国史研究』中国国際広播出版社、2012年