モンカルム (Croiseur Montcalm ) はフランス海軍 のラ・ガリソニエール級軽巡洋艦 。艦名はフランス陸軍 の軍人ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム に因む。
艦歴
1952年に撮られた「モンカルム」。右側の重巡洋艦は「デ・モイン 」。
F C de la Méditerranée社ラ・セーヌ造船所にて1933年11月15日に起工、1935年10月26日進水、1937年11月に竣工した。就役後はブレストの第4巡洋艦戦隊に所属した。その後、フランス領インドシナに派遣されてサイゴン方面の哨戒任務に就いた。1938年1月よりフランス大西洋艦隊に所属した。第二次世界大戦時には大西洋での船団護衛やドイツ海軍 の「シャルンホルスト 」と「グナイゼナウ 」に備えての哨戒任務に従事した。
フランスの降伏後の1940年4月にはメルセルケビル 港に移動し、現地でヴィシー政権に属し、フランス領北アフリカのアルジェ港に留まった。連合軍のメルセルケビル海戦以降は北アフリカよりトゥーロン に移動した。ヴィシー政権は1940年9月9日に植民地の支配維持のため「モンカルム」の姉妹艦「ジョルジュ・レイグ 」「グロワール 」と大型駆逐艦「ル・マラン 」、「ル・ファンタスク 」、「ローダシュー 」をツーロンから出撃させた。この艦隊は9月11日に妨害を受けることなくジブラルタル海峡を通過し、9月12日にカサブランカに到着した。9月18日、3隻のフランス巡洋艦はダカールを出航しガボン へ向かったが、オーストラリア海軍 の重巡洋艦「オーストラリア 」とイギリス海軍 の重巡洋艦「カンバーランド 」に発見されリーブルヴィル 沖で追跡してきた二隻と戦闘になり、「モンカルム」は「オーストラリア」を退けたが、機関の故障で僚艦より離れてしまった「グロワール」は「オーストラリア」に捕捉され、カサブランカに送られた。「モンカルム」と「ジョルジュ・レイグ」はダカールへと帰還した。(ダカール沖海戦 )
1943年のトーチ作戦 により北アフリカ行政の最高責任者であったダルラン大将は連合軍への停戦を受諾したことにより「モンカルム」は連合軍側に所属する事となった。4月より自由フランス海軍 の艦艇として再就役してダカールを母港にして大西洋方面の哨戒任務に就いた。アメリカのフィラデルフィアで2月から8月にかけて近代化改装を受け、艦橋の背後に四脚型のマストを新設して各種レーダーの装備と対空機関砲の更新が行われた。その後1944年1月までダカール沖から南大西洋で任務に就いた。
その後、ラ・セーヌ造船所で1946年1月まで整備に入った。インドシナ戦争時には艦砲射撃に就いた。(第一次インドシナ戦争 ) 1957年にチュニジアで予備役になりハルク となった。1959年に除籍後、1969年に廃棄船「Q457」に対別されて1970年に解体処分となった。[ 1]
参考図書
「世界の艦船 増刊第50集 フランス巡洋艦史」(海人社 )
「世界の艦船 1986年 1月増刊号 近代巡洋艦史」(海人社 )
「世界の艦船 2010年 1月増刊号 近代巡洋艦史」(海人社)
「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
「Conway All The World's Fightingships 1906-1922」(Conway)
脚注
^ 世界の艦船 フランス巡洋艦史(海人社), p. 117
外部リンク