ミネベアミツミFC(MinebeaMitsumi FC)は、宮崎県宮崎市を本拠地とする、ミネベアミツミの子会社・ミネベア アクセスソリューションズの運営する社会人サッカークラブ(実業団)。正式名称は「ミネベアミツミフットボールクラブ」。
2023年にホンダロックSC(株式会社ホンダロックサッカー部)から改称した。
概要
1964年、当時の株式会社ホンダロック(本田技研工業の自動車部品製造子会社)が社内福利厚生を目的に「本田ロック黒潮会サッカー部」として創立。選手は現在に至るまで全員が同社の社員選手で構成される。ほぼ毎年シーズンオフ中にて開催されるセレクション等でJリーグチームを初めとするプロチームおよび社会人チームからの移籍選手をも受け入れているが、この場合も社員選手として獲得している[注 1]。
2023年1月27日、ホンダロックは全株式が本田技研工業からミネベアミツミへ譲渡され、ミネベアミツミの完全子会社となった[1]。同時に社名も「ミネベア アクセスソリューションズ」に変更されたため、同日付でチーム名も「ミネベアミツミFC」に変更された[2][3][4]。
歴史
- 2003年以前
- 宮崎県サッカーリーグ時代には通算11回の優勝を果たしている。
- 2004年
- 九州サッカーリーグで初優勝し、JFL昇格を懸けた第28回全国地域リーグ決勝大会に進出するが3位に終わった。当初の昇格条件である2位以内(JFL下位との入れ替え戦出場)に入れなかったが、大塚製薬・ザスパ草津のJリーグ加盟と国士舘大学サッカー部の不祥事によるJFL脱退で3位までが自動昇格となったことにより2005年度からのJFL昇格が決まった。
- 宮崎県代表として出場した第84回天皇杯ではJ2・コンサドーレ札幌に敗退。
- 2005年
- JFL昇格初戦は浜松市にある本田技研本社のチーム、Honda FCとの「ホンダ・ダービー」となった。このシーズンは15位に終わったが、大串良秀が1シーズン4本のフリーキックによるゴール(JFLタイ記録)を決めるなど、14得点の活躍を見せた。
- 2006年
- 前期は16位で折り返したが後期は思うように成績が伸びず、結局年間18位で入れ替え戦へ回り、地域リーグ決勝大会2位のFC岐阜を相手に第1戦0-4、第2戦1-4で連敗、2007年の九州リーグ降格が決定した。
- 2007年
- 3年ぶりの九州リーグ参戦となり、1年でのJFL復帰を目指した。最終節前の21節に勝利して首位を守り、この時点で地域リーグ決勝大会の出場権を確保した。しかし最終節のV・ファーレン長崎との試合では、終盤立て続けに2失点し、1-2で逆転負け。その前に行われた試合で勝利を収めていた2位のニューウェーブ北九州に逆転優勝を許すこととなった。最終成績が2位であったため、同年の全国地域リーグ決勝大会には出場したが、予選リーグで初戦グルージャ盛岡に勝利したものの2戦目で最終的に優勝(JFL昇格)したファジアーノ岡山FCに敗退し2位となったため決勝ラウンド進出を逃し、1年でのJFL復帰はならなかった。
- 2008年
- 序盤に一時首位に立つものの終盤失速し、3位に終わりリーグ戦での地域リーグ決勝大会の出場権を確保できなかった。しかし、10月の全国社会人サッカー選手権大会において3位になり、本年からこの大会の上位2チームに与えられる地域リーグ決勝大会出場権を繰り上げで獲得した[注 2]。
- 11月22日から12月1日にかけて開催された地域リーグ決勝大会では、1次ラウンドA組を2勝1敗の首位で通過し[注 3]、決勝ラウンドは1勝2敗の3位で終えた[注 4] この年はJFLから3チームのJリーグ参入が決定したため、3位のホンダロックは入れ替え戦なしで3年ぶりのJFL復帰を達成した。
- 2009年
- 3年ぶりのJFL復帰。下馬評ではJFL残留争いだったが、得点こそ少ないものの守備が安定し、一部上位チームよりも少ない失点数で一時は中位まで順位を上げた時期もあった。第89回天皇杯に宮崎県代表として出場、2回戦ではJ2の東京Vから得たPKを前田悠佑が決め、東京Vの攻撃は持ち前の堅い守備で切り抜けて1-0で勝利し、8度目の出場で初めてJリーグクラブを倒し、かつ同大会ではJFL勢で唯一の3回戦進出チームとなった。3回戦ではJ1の名古屋に0-2で敗れた。リーグ戦も13位となり、過去最高順位で2009年を終えた。
- 2010年
- 宮崎県内での口蹄疫発生に伴い、感染拡大防止のため宮崎県内で開催しているホームゲームを5月下旬から中止・順延あるいは対戦チームのホームゲームとして開催に変更となった(順延となった試合は8月中に開催された)。また7月の2試合の主催試合も無観客試合(一般ファン立入禁止。会場も非公表→その後2011年2月に会場説明が解禁となり「フェニックスリゾート(シーガイア)イベントスペース」(宮崎市)で開催したと公表)とする処置をとった。詳細は2010年日本における口蹄疫の流行を参照。成績も決定力不足は相変わらずも守備は安定し、前年と同じ13位で終了した。
- 2011年
- 1月に口蹄疫からの復興として元日本代表の中田英寿率いる「TAKE ACTION F.C.」と対戦。釘崎康臣、麻生大治郎が得点を挙げ2-2とした。これまでチームに外国籍の選手はそれまでいなかったが、黄大俊(韓国籍)が初めて外国籍の選手での入団(入社)そして、チーム初となる天皇杯のJFLシード権を獲得した(東北大震災の影響により選出方法が変わり、前期7節から開始し、11試合を行なった時点での順位上位2チームにシード権だったため)。シーズン序盤でGK2人がケガにより戦線離脱しGKがいない事態となったが、コーチである川島正士が臨時で現場復帰している。この年、JFL参加してから1度も勝てていなかったHonda FCに後期第9節に3-2で初勝利。シーズン途中で監督の池田竜市が退任、後任にはコーチの城和憲(城彰二の弟)が昇格。前半戦は好調で首位争いに加わっていたが、後期に入ると連敗などで失速。しかし、過去最高位になる8位で終了。この年で長年ホンダロックSCを支えたDFの谷口研二、白川伸也、澤村憲司が現役引退した。
- 2012年
- チームの要であったMF前田悠佑がV・ファーレン長崎、DF小原拓也がFC琉球へ移籍。この年入団セレクションは行われなかったものの、大学生の肝付・串間、セレッソU18から鶴崎を獲得。また各選手のポジションのコンバート(釘崎がFW専念、FW熊元がDFなど)など新体制で臨むものの、開幕から自己ワースト記録の10連敗を喫してしまう。復調の兆しを見せるも天皇杯宮崎県予選決勝にて宮崎産業経営大学に敗退、宮崎県代表として長く出場していたが、記録が途絶えた。リーグ戦は16位となり、本来なら地域リーグ決勝大会3位チームとの入れ替え戦となるが、SAGAWA SHIGA FCの活動休止・JFL脱退のため繰り上げでJFL残留となった。
- 2013年
- 川島正士が監督に就任。シーズン当初から低迷し最終節で最下位(18位)に落ちた。しかし、2014年よりJ3リーグ導入に伴い、10チームがJFLからJ3に加盟するためJFL残留となった。
- 2014年
- 井戸川一徹が監督に就任。長崎で行われた「長崎がんばらんば国体」サッカー成人の部として諏訪園・串間・宮路・原田・麻生がメンバー入り。35年ぶりの宮崎県勢では優勝に貢献。また、この年で首藤・麻生・山下・原田・釘崎らが現役を引退している(ただし、社業への専念・コーチへの転身などで会社自体には引き続き在籍している者も多い)。リーグ戦は10位で終えた。
- 2015年
- 井戸川体制2年目。入団セレクションは行われず、MF山田貴文・岡田峻・坂本翔 FW米良智記が入団。キャッチフレーズは「一途」。リーグ戦は9位で終えた。
- 2016年
- 谷口研二が監督に就任。リーグ戦は過去最高となる4位で終えた。
- 2017年
- 谷口体制2年目。リーグ戦は8位で終えた。
- 2018年
- 谷口体制3年目。リーグ戦は14位で終えた。
- 2019年
- 白川伸也が監督に就任。リーグ戦は6位で終えた。
- 2020年
- 宮路洋輔が監督に就任。リーグ戦は12位で終えた。
- 2021年
- 宮路体制2年目。前半戦、後半戦とも3勝ずつに終わり、リーグ戦は17チーム中16位、同年の規定により全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2021で2位のFC.ISE-SHIMAとの入替戦に出場、3-2で勝利しJFL残留。
- 2022年
- 宮路体制3年目。シーズン前半戦には4連勝を記録する等好調な時期もあったが、夏場に6連敗もあるなど浮き沈みの激しいシーズンとなった。しかし前年度は違い、早々に残留を決めることに成功。10位でシーズンを終えた。
- シーズン途中の8月4日にはホンダロックが本田技研工業傘下から離れ、ミネベアミツミの完全子会社になる事が発表された。
- 2023年
- 1月27日、ミネベアミツミによる完全子会社化に伴い、同日付でサッカー部も「ホンダロックサッカー部(ホンダロックSC)」から「ミネベアミツミフットボールクラブ(ミネベアミツミFC)」へ名称変更[2]。リーグ戦は14位。
- 2024年
- 宮路体制5年目。この年、最下位の16位で本来なら九州リーグに自動降格だったが、ソニー仙台FCが2024年限りでJFL退会となったため、JFL・地域リーグ入替戦に回る事となった。そして入替戦は全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2024準優勝のVONDS市原に試合終了間際に先制し、1-0で勝利して2021年に続いて辛うじてJFL残留となった[6]
スタジアム
年度 |
生目の杜 |
宮崎県陸/ ハイビ陸/ ひなた陸 |
小林陸 |
延岡西階 |
その他
|
2005 |
0 |
7 |
8 |
0 |
|
2006 |
8 |
2 |
7 |
0 |
|
2009 |
14 |
0 |
1 |
2 |
|
2010[注 5] |
13 |
1 |
1 |
0 |
シーガイア2[注 6]
|
2011[注 7] |
11 |
1 |
3 |
2 |
|
2012 |
9 |
2 |
3 |
2 |
|
2013 |
10 |
2 |
2 |
3 |
|
2014 |
9 |
0 |
3 |
2 |
|
2015 |
10 |
1 |
3 |
1 |
|
2016 |
10 |
0 |
2 |
2 |
串間1
|
2017 |
6 |
1 |
3 |
3 |
串間2
|
2018 |
0 |
2 |
2 |
3 |
都農7、串間1
|
2019 |
4 |
4 |
3 |
2 |
都農1、串間1
|
2020 |
3 |
3 |
0 |
0 |
都農1
|
2021 |
9 |
2 |
2 |
1 |
都農2
|
2022 |
7 |
4 |
0 |
1 |
都農1、串間1
|
2023 |
6 |
0 |
2 |
2 |
都農2、串間1、ユニスタ1
|
戦績
JFLまたは九州サッカーリーグのみ
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
チーム |
試合 |
勝 |
分 |
負 |
得点 |
失点 |
差 |
監督
|
1986 |
九州 |
7位 |
7 |
10 |
9 |
2 |
3 |
4 |
13 |
16 |
-3 |
?
|
1987 |
10位 |
4 |
10 |
9 |
1 |
2 |
6 |
8 |
15 |
-7 |
?
|
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
チーム |
試合 |
90分勝 |
PK勝 |
PK負 |
90分負 |
得点 |
失点 |
差 |
監督
|
1997 |
九州 |
5位 |
26 |
10 |
18 |
5 |
3 |
5 |
5 |
32 |
31 |
1 |
?
|
1998 |
8位 |
21 |
10 |
18 |
6 |
0 |
3 |
9 |
34 |
37 |
-3 |
?
|
1999 |
4位 |
32 |
10 |
18 |
9 |
2 |
1 |
6 |
47 |
37 |
10 |
?
|
2000 |
2位 |
37 |
10 |
18 |
12 |
0 |
1 |
5 |
54 |
24 |
30 |
?
|
2001 |
5位 |
29 |
10 |
18 |
8 |
2 |
1 |
7 |
33 |
34 |
-1 |
?
|
2002 |
3位 |
39 |
10 |
18 |
12 |
1 |
1 |
4 |
54 |
27 |
27 |
?
|
2003 |
6位 |
31 |
12 |
22 |
8 |
1 |
3 |
9 |
40 |
44 |
-4 |
?
|
2004 |
優勝 |
47 |
10 |
18 |
14 |
2 |
1 |
1 |
52 |
16 |
36 |
?
|
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
チーム |
試合 |
勝 |
分 |
負 |
得点 |
失点 |
差 |
監督
|
2005 |
JFL |
15位 |
15 |
16 |
30 |
3 |
6 |
21 |
38 |
79 |
-41 |
福田修
|
2006 |
18位 |
22 |
18 |
34 |
5 |
7 |
22 |
39 |
86 |
-47 |
生目春男 / 松山浩司
|
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
チーム |
試合 |
勝 |
PK勝 |
PK負 |
負 |
得点 |
失点 |
差 |
監督
|
2007 |
九州 |
2位 |
52 |
10 |
18 |
17 |
0 |
1 |
2 |
76 |
19 |
57 |
福田浩一
|
2008 |
3位 |
46 |
10 |
18 |
14 |
2 |
0 |
2 |
62 |
14 |
48
|
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
チーム |
試合 |
勝 |
分 |
負 |
得点 |
失点 |
差 |
監督
|
2009 |
JFL |
13位 |
40 |
18 |
34 |
9 |
13 |
12 |
34 |
38 |
-4 |
廣池寿
|
2010 |
13位 |
42 |
18 |
34 |
10 |
12 |
12 |
36 |
39 |
-3
|
2011 |
8位 |
47 |
18 |
33 |
12 |
11 |
10 |
47 |
45 |
2 |
池田竜市 / 城和憲
|
2012 |
16位 |
28 |
17 |
32 |
7 |
7 |
18 |
28 |
56 |
-28 |
城和憲
|
2013 |
18位 |
29 |
18 |
34 |
6 |
11 |
17 |
26 |
47 |
-11 |
川島正士
|
2014 |
10位 |
29 |
14 |
26 |
7 |
6 |
13 |
31 |
52 |
-21 |
井戸川一徹
|
2015 |
9位 |
40 |
16 |
30 |
11 |
7 |
12 |
31 |
37 |
-6
|
2016 |
4位 |
59 |
16 |
30 |
17 |
8 |
5 |
46 |
23 |
+23 |
谷口研二
|
2017 |
8位 |
34 |
16 |
30 |
9 |
7 |
14 |
36 |
46 |
-10
|
2018 |
14位 |
29 |
16 |
30 |
6 |
11 |
13 |
29 |
52 |
-23
|
2019 |
6位 |
41 |
16 |
30 |
10 |
11 |
9 |
41 |
39 |
+2 |
白川伸也
|
2020 |
12位 |
19 |
16 |
15 |
5 |
4 |
6 |
19 |
25 |
-6 |
白川伸也 / 宮路洋輔
|
2021 |
16位 |
27 |
17 |
32 |
6 |
9 |
17 |
26 |
48 |
-22 |
宮路洋輔
|
2022 |
10位 |
36 |
16 |
30 |
10 |
6 |
14 |
33 |
33 |
0
|
2023 |
14位 |
31 |
15 |
28 |
8 |
7 |
13 |
35 |
44 |
-9
|
2024 |
16位 |
22 |
16 |
30 |
5 |
7 |
18 |
25 |
48 |
-23
|
ユニフォーム
ユニフォームの色
カラー
|
シャツ
|
パンツ
|
ストッキング
|
FP(1st)
|
赤
|
赤
|
赤
|
FP(2nd)
|
黄
|
黒
|
黄
|
GK(1st)
|
水色
|
水色
|
水色
|
GK(2nd)
|
グレー
|
グレー
|
グレー
|
|
|
|
チームカラー
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 |
スポンサー名 |
表記 |
提出年 |
備考
|
胸
|
ミネベアミツミ |
MinebeaMitsumi |
2023年 - |
1964年 - 2022年は「Honda Lock」表記
|
鎖骨
|
なし |
- |
- |
|
背中上部
|
なし |
- |
- |
|
背中下部
|
なし |
- |
- |
|
袖
|
なし |
- |
- |
|
パンツ前面
|
なし |
- |
- |
|
パンツ背面
|
なし |
- |
- |
|
ユニフォームサプライヤー
- 2009年までユニフォームサプライヤーは不明(おそらく個人経営商店が作成していたものや、ミズノなどを使っていた時期もある)
- 2010年よりKappa社製。
- 2009年頃まではユニフォーム以外のベンチコート等はプーマ社製だった。
- なお、ユニフォームには不死鳥(フェニックス)を模ったデザインがある。
タイトル・表彰
リーグ戦
カップ戦
個人
エンブレム・マスコットキャラクター
- エンブレム
- チームスローガンである「闘う集団」の象徴として、また宮崎の県木「フェニックス」と県鳥「コシジロヤマドリ」を不死鳥である「フェニックス」に置き換えて表現[7]。
- 「フェニックス」には「永遠に生き続ける者」「強い者」「唯一無二」という意味が込められており、イメージカラーである炎の赤は「攻め」「生命力と情熱」「南国の太陽」「エネルギー」「闘争心」を表現[7]。
- 2020年まで
- 長方形に白とクラブカラーの赤を使って、フェニックスとサッカーボールをデザイン。
- 2021年から
- 2021年1月18日、フェニックスの意匠はそのままに、会社の主力製品であるカギをあしらったエンブレムに変更した[7][8]。働きながらリーグで戦うことへの誇りと、チームが会社の永続的な発展を支える「カギ」のような存在であってほしいとの思いが込められている[7]。
- ミネベアミツミFCへの改称とともにクラブカラーも青に変更となったため、カギをあしらったデザインやフェニックスの意匠はそのままに、赤地であったエンブレムを青地に変更した。
- マスコットキャラクター
- 「ロッキー」
- 「闘う集団」のスローガンの下、前向きにゴールを目指す姿勢の、アグレッシブで負けん気の強いキャラクター。燃える闘志を不死鳥ならではの「炎」で表現し、太い線や赤を基調とした色づかいが力強さを強調[7]。
- 「ロッキー」という名前は、一般公募を実施して200件を超える募集の中から選ばれた。「ロック」という社名やチーム名の他、映画「ロッキー」のように、明日に向かって闘うキャラクターという思いや、壮大な「ロッキー山脈」を越えて羽ばたく不死鳥であって欲しい、といったサポーターの思いが込められている[7]。
エピソード
- Honda FC同様、プロ化の意思は無い。宮崎県のサッカー協会などからプロ化への打診はあったようだが、チームスローガンにもあるとおり「アマチュアで日本一」を目指している。
- 電撃ネットワークのメンバー(デビュー前)およびマネージャーを務めていた『ロック総統』と呼ばれる名物サポーターがいる[9]。「Jへの鍵」を持って、対戦クラブ側サポーター席に乗り込み、パフォーマンスを繰り広げることが、ホンダロック、ひいてはJFLの名物ともなっている。
- 嘗ては唯一の「宮崎に本拠地を置く全国リーグのチーム」であったことから、2月の宮崎でのキャンプシーズンでは、多くのJリーグチームの練習試合の受け皿となることが多かった。
脚注
- 注釈
- ^ グループ中核企業のチームであるHonda FCも2002年から2013年までは全員が本田技研工業の正社員・ないしは契約社員のみで浜松製作所の従業員としての勤務をしながらの純アマチュアだったが、2014年からプロ(正式にはサッカーを専門に行う契約社員扱い)の受け入れを再開している
- ^ 同年の全国社会人選手権で優勝したAC長野パルセイロは北信越フットボールリーグの優勝によってすでに地域リーグ決勝大会の出場権を得ていたため、ホンダロックが繰り上がった。
- ^ 対戦順に、AC長野パルセイロに2-2からのPK負け、九州サッカーリーグチャンピオンの沖縄かりゆしFCに0-0からのPK勝ち、前年同大会決勝ラウンド4位のバンディオンセ加古川に2-1で90分勝ち。地域決勝大会は90分で同点の場合はすぐにPK戦を行う。A組は過去の大会での上位チームが集まり、6試合中3試合がPK戦になったことで改めて「死の組」とも評された[5]。
- ^ 対戦順に、九州サッカーリーグ2位のV・ファーレン長崎に0-5で90分負け、中国サッカーリーグ優勝のレノファ山口FC戦を2-0で90分勝ち、関東サッカーリーグ優勝のFC町田ゼルビアには1-2で90分負け。
- ^ 当初は生目の杜14、延岡西階2、小林陸上1の予定だったが、口蹄疫問題を受けてホームとアウェーの入れ替え、並びに無観客試合(会場も2010年内は公表せず)とする処置をとった
- ^ 観客非公開
- ^ 当初は生目の杜12、小林陸上3、延岡西階2、宮崎県陸1の予定だったが、前期第12節のソニー仙台FC戦が、東日本大震災によるソニー仙台工場の被災のため中止となった。
- 出典
関連項目
外部リンク
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スタッフ | |
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選手 |
GK | |
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DF |
- 4 五十嵐磨於
- 15 越野雄太
- 20 今田光
- 22 大川智己
- 27 鷹巣直希
|
---|
MF |
- 6 牧野翔太
- 7 髙木虎之介
- 8 縄靖也
- 10 田中大和
- 11 杉田達哉
- 13 髙原大知
- 14 中村仁
- 17 木橋朋暉
- 23 樋口堅大
|
---|
FW |
- 9 大脇瑞城
- 18 鈴木陽介
- 25 大塚尋人
- 26 藤井奨也
|
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- | |
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関連項目 | |
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