別名「エル・アデランタード(西: El Adelantado、アデランタードとは征服地の統治権を持つ司令官)」または「エル・ビエホ(西: El Viejo、老人)」とも呼ばれた。
前半生
1502年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピはスペイン・バスク地方のギプスコアにあるスマラガで、地元の貴族ドン・フアン・マルティネス・ロペス・デ・レガスピ(Don Juan Martínez López de Legazpi)とエルビラ・グルチャテギ(Elvira Gurruchategui)の間に末息子として生まれた。
この遠征はスペイン王フェリペ2世(ビリャロボスは1543年の探検で、皇太子時代の彼を称え、現在のフィリピン諸島にフェリペナスと名づけていた)によって命令されたものであった。1564年7月に副王は亡くなるが、副王の下のアウディエンシア(司法官)とロペス・デ・レガスピはすでに遠征の準備を完了していた。1564年11月21日の早朝、5隻からなる艦隊と500名の武装した兵士、聖アウグスチノ修道会の修道士で航海士のアンドレス・デ・ウルダネータやフランシスコ会からの修道士を連れて、ロペス・デ・レガスピは現在のメキシコ西海岸・ハリスコ州にあるバラ・デ・ナビダード(Barra de Navidad)の港を出航した。
4月27日、ロペス・デ・レガスピたちはセブ島に戻った。島の東岸にあるスグボ(現・セブ)を治めていたのは、かつてマゼラン来航の際にキリスト教に改宗した酋長ラジャ・フマボンの、息子にあたるラジャ・トゥパスであったが、フマボンはマゼランを裏切り、偽りの宴を設けて、一行の多くを毒殺していた。ロペス・デ・レガスピの兵隊たちはこの町を攻撃し破壊した。ここに、彼らはフィリピン諸島における最初の入植地、ビジャ・デル・サンティシモ・ノンブレ・デ・ヘスス(Villa del Santisimo Nombre de Jesús、イエスの最も聖なる御名の村)とビジャ・デ・サン・ミゲル(Villa de San Miguel、聖ミカエルの村)を建設した。7月、増援を求めるためと復路開拓のためにロペス・デ・レガスピはアンドレス・デ・ウルダネータをメキシコへ戻らせた。
1568年、ロペス・デ・レガスピは部下を一人スペインに戻し、彼らの成果を報告させた。ロペス・デ・レガスピ自身は健康の問題と高齢のためセブに残り、後のマニラ征服の際にも兵士たちに同行しなかった。この頃彼は北方のルソン島のマニラに富があることを聞き、二人の副官、マルティン・デ・ゴイティ (Martín de Goiti) とフアン・デ・サルセード (Juan de Salcedo) を北部地方の探検に向かわせた。
ロペス・デ・レガスピは1572年、マニラで心不全で死ぬまでの1年間、植民地を統治した。彼は征服活動の間、個人資産のほとんどをそのために使ってしまったため、貧困と破産のうちに亡くなりわずか数ペソしか遺さなかった。ロペス・デ・レガスピは後にイントラムロスのサン・アウグスティン教会にその遺体を安置された。彼は、1574年にスペイン王からマニラ市へ「著名にして永久に忠実なスペインの都市(Insigne y Siempre Leal Ciudad de España)」という称号が贈られ、その記念祭が盛大に開催される光景を見ることはなかった。
晩年、ロペス・デ・レガスピは、彼が果たした東インド探検及びその征服を綴った手紙をフェリペ2世に数通書いている。これらの書簡は「Cartas al Rey Don Felipe II : sobre la expedicion, conquistas y progresos de las islas Felipinas」と総称されている。これらは今でも、セビリアにある東西インド征服に関する文書保管庫に保管されている。
参考文献
Morga , Antonio de. (2004). The Project Gutenberg Edition Book : History of the Philippine Islands - 1521 to the Beginning of the XVII century. Volume 1 and 2.
Legazpi , Don Miguel López de. (1564 - 1572). Cartas al Rey Don Felipe II : sobre la expedicion, conquistas y progresos de las islas Felipinas. Sevilla , España.