マイケル・ウィリアム・バルフ (Michael William Balfe, 1808年 5月15日 - 1870年 10月20日 )は、アイルランド の作曲家 。オペラ 「ボヘミアの少女 (英語版 ) 」で最も知られる。
ヴァイオリニスト としての短いキャリアの後、オペラ歌唱の道に進み、同時に作曲を開始した。40年以上に及ぶキャリアの中で、38のオペラと約250曲の歌曲、その他の作品を作曲した。また、指揮者 としても有名で、ハー・マジェスティーズ・シアター での7年間のイタリア・オペラの指揮をはじめ、他の指揮者職にも就いていた。
生涯
幼少期と初期キャリア
ダブリン に生まれ、幼い頃から音楽の才能を示していた。彼は舞踏指導者兼ヴァイオリニストの父と、作曲家のウィリアム・マイケル・ルーク から指導を受ける[ 1] 。彼がまだ少年の頃に、一家はウェクスフォード に移り住んだ。1814年 と1815年 の間に父の舞踏教室でヴァイオリンを弾き、7歳でポロネーズ を作曲している。
1817年 、バルフはヴァイオリニストとして公開演奏を行い、同年にはバラード を作曲した。この曲は最初「ヤング・ファニー Young Fanny 」と呼ばれており、後にベストリス婦人 によってPaul Pry で歌われた際には「恋人達の過ち The Lovers' Mistake 」と呼ばれた。1823年 に父が他界すると、まもなくロンドン に移り住んで、ドルリー・レーン にある王立劇場[ 注 1] の管弦楽団でヴァイオリニストを務めた。その後、彼はその管弦楽団の指揮者 に就任している[ 2] 。一方で、彼はロンドンにおいてチャールズ・エドワード・ホーン にヴァイオリンを、1824年 からウィンザー城 内のセント・ジョージ教会[ 注 2] でオルガニスト となっていたチャールズ・フレデリック・ホーン に作曲を師事した。
ヴァイオリン演奏を続ける傍ら、バルフはオペラ歌手としてのキャリアも模索していた。彼はノリッジ においてウェーバー の「魔弾の射手 」でデビューを果たしたが、これは失敗に終わった。1825年 、マッザーラ(Mazzara)伯爵が彼を声楽と音楽の修行のためにローマ へと連れていき、ケルビーニ に紹介した。バルフは作曲の道も推し進めていた。彼はイタリア において、最初の劇作品であるバレエ 「La Perouse 」を作曲している。彼はロッシーニ に弟子入りし、1827年 の終わりにはパリ のイタリア・オペラに「セビリアの理髪師 」のフィガロ役で登場した。
バルフは程なくイタリアに戻り、続く8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲の拠点とした。彼はこの期間にパリのオペラ座 で歌っており、そこでマリア・マリブラン と出会っている。1829年 のボローニャ では、彼は当時18歳だったソプラノ 歌手のジュリア・グリジ のために、初めてとなるカンタータ を作曲した。彼女は、テノール のフランチェスコ・ペドラッツィ(Francesco Pedrazzi)と共にこれを歌い、大きな成功を収めた。バルフはパレルモ での1829年から1830年 のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ「I rivali di se stessi 」を上演した。
1831年 頃、オーストリア の血筋でハンガリー 生まれの歌手のリーナ・ローゼル(Lina Roser; 1806年 -1888年 )と結婚した。2人が出会ったのはベルガモ であった[ 3] 。2人の間には2男2女が生まれている。下の息子エドワード(Edward)は、生後まもなく死亡した。上の息子のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、1915年 にこの世を去っている。娘はルイーザ(Louisa; 1832年 -1869年 )とヴィクトワール(1837年 -1871年 )であった。バルフはパヴィーア でオペラ「Un avvertimento ai gelosi 」を、ミラノ では「Enrico Quarto 」を作曲した。ミラノでは1834年 にマリブランと共に、スカラ座 でロッシーニの「オテロ 」を歌う契約となっていた。珍しい試みとして、彼はマイアベーア のオペラ「エジプトの十字軍 」に自分の音楽を加えて「改良」しようと試みたが、これによってヴェネツィア のフェニーチェ劇場 での契約を放棄せざるを得なくなってしまった。
作曲家としての成功
バルフ 1860年
バルフは1835年 5月、妻と幼い娘を連れてロンドンに戻った。数ヵ月後に彼に最初の成功が訪れる。1835年10月29日 のドルリー・レーンでの「The Siege of Rochelle 」の初演である。この成功に勇気付けられ、彼は1836年 に「The Maid of Artois 」を発表し、さらに英語のオペラの発表が続いた。
1838年 7月、バルフはS.マンフレード・マッジオーネ(Manfredo Maggione)の台本 によって、ハー・マジェスティーズ・シアター用にシェイクスピア の「ウィンザーの陽気な女房たち 」に基づく新作オペラ「ファルスタッフ Falstaff 」を作曲した。初演に際しては友人のルイジ・ラブラーシュ (英語版 ) (バス )が主役を務めた他、ジュリア・グリジ(ソプラノ)、ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ (英語版 ) (テノール)、そしてアントニオ・タンブリーニ (英語版 ) (バリトン )が出演した。この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラでベッリーニ の「清教徒 」の初演を行ったのと同じ布陣であった[ 3] 。
1841年 、バルフはロンドンのライシーアム劇場 (英語版 ) にナショナル・オペラを設立したが、この事業は失敗に終わった。同年に、彼はオペラ「Keolanthe 」を初演している。その後、彼はパリへと移って1843年 の初頭には「Le puits d'amour 」を上演、1844年 にはオペラ=コミック座 のための「エーモンの4人の息子 (英語版 ) [ 注 3] 」に基づく自作オペラ、1845年 にはオペラ座のための「L'étoile de Seville 」が続いた。これらの作品の台本を書いたのは、ウジェーヌ・スクリーブ や他である[ 4] 。
一方、1843年にバルフはロンドンに戻り、1843年11月27日 にドルリー・レーンの王立劇場で、彼の一番の成功作である「ボヘミアの少女 (英語版 ) 」を初演した。この作品の公演は100夜以上を数え、まもなくニューヨーク 、ダブリン、フィラデルフィア 、ウィーン 、シドニー など、ヨーロッパ中やその他の各地域で上演された。1854年 には、「La Zingara 」と題されたイタリア語 版がトリエステ で上演されて大成功となり、これもイタリアやドイツ の両国で国境を越えて披露された。さらに1862年 には4幕形式のフランス語 版「La Bohemienne 」がフランスで上演され、これもまた成功を収めた[ 3] 。
晩年
1846年 から1852年 にかけて、バルフはハー・マジェスティーズ・シアターでイタリア・オペラの音楽監督並びに首席指揮者を務めた[ 5] 。ここで、彼はヴェルディ のオペラのいくつかを、ロンドンの聴衆に対して初めて上演している。彼はジェニー・リンド がオペラデビューを果たした際の指揮者を務めており、その後も幾度にもわたって彼女と共演している[ 3] 。
1851年 、ロンドン万博 への期待が高まる中、バルフは革新的なカンタータ「Inno Delle Nazioni 」を作曲した。この曲では9人の女性歌手が歌うが、それぞれが国を表している。バルフは英語による新たなオペラの作曲を続けると同時に、大量の歌曲を作曲している。「When other hearts 」、「I Dreamt I Dwelt in Marble Halls 」(「ボヘミアの少女」より)、「Come into the Garden, Maud 」、「Excelsior 」(ロングフェロー 詩)などである[ 6] 。バルフは合計38のオペラを作曲した。また、数曲のカンタータ(1862年 の「マゼッパ Mazeppa 」など)、少なくとも1曲の交響曲を作曲している。彼の最後のオペラは、彼がこの世を去った時にほぼ完成されていた「The Knight of the Leopard 」であり、イタリア語 版では「Il Talismano 」として大きな成功を収めた[ 3] [ 7] 。バルフの大規模な楽曲で、今日でも演奏されることがあるのは「ボヘミアの少女」のみである。
1864年 に引退した後、ハートフォードシャー で田舎の屋敷を借りた。彼は1870年、62歳の時に自宅で没し、ケンザル・グリーン (英語版 ) に埋葬された。1882年 には、ウェストミンスター寺院 で彼の肖像のメダル飾りが除幕された。ロンドン州議会[ 注 4] のバルフを記念する飾り板は、1912年 にマリバン 、セイモア通り(Seymour Street)12に掲げられた[ 8] 。
録音
バルフの作品は、数こそ多くないものの一定のペースで録音がなされている。
LP時代には「The Siege of Rochelle 」、「 The Daughter of St. Mark 」、「The Rose of Castille 」、「Satanella 」の録音があった。
リチャード・ボニング 指揮による「ボヘミアの少女」は1991年 にArgoレーベルから出されていたが、後にデッカ から再発売されている、Decca 473 077-2
デボラ・リーデルとリチャード・ボニングによるアリアの録音のCDは、The Power of Love という題でMelba Z-MR301082の品番で出されており、バルフ作品が数曲含まれる。
「The Maid of Artois 」が2005年にVictorian Opera Northwest によって録音され、Cameo 2042-3の品番で入手可能である。
またVictorian Opera Northwestはバルフの歌曲とアリア をWRW 204-2で出している。
Opera Rara からは2枚のCDが出された。ORR 239には「Cantata Sempre pensoso e torbido 」が収録され、ORR 277には歌曲の「The blighted flower 」が収録されている。
2008年のオペラ・アイルランドによるバルフの「ファルスタッフ」の演奏会形式での公演は、RTÉ Lyric FMで放送されたものがRTÉ LyricFM LYRICCD119の品番で発売されており、ナクソス から入手できる[ 2] 。
バルフの序曲1曲と歌曲集(サリヴァン の楽曲もある)はヴィクトリア朝の忘れられた劇場音楽 で見つけることが出来る。
彼の器楽曲の一例である「チェロソナタ」が、Dutton CDLX 7225 に収録されている。
脚注
注釈
出典
^ Michael William Balfe , Oxford Music Online, accessed 17 November 2012 (subscription required)
^ a b Falstaff recording , RTÉ LyricFM LYRICCD119, CD notes by Basil Walsh (2008)
^ a b c d e Walsh Basil. "Michael William Balfe" at the British and Irish World website
^ Sadie, Stanley (ed) (1992). the New Grove Dictionary of Opera . Oxford: Oxford University Press. vol.1, p288. ISBN 978-0-19-522186-2
^ Walsh, Basil. "Michael W. Balfe (1808-70): His Life and Career" Victoria Web, accessed 7 February 2008
^ "What's in a name?" Archived 2011年10月5日, at the Wayback Machine . at the Excelsior Trust website. Accessed 17 August 2010.
^ Trutt, David. Introduction and link to English-language libretto of Il Talismano , Haddon Hall website, accessed 2 October 2010
^ “Balfe, Michael William (1808-1870) ”. English Heritage. 2012年10月19日 閲覧。
参考文献
英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
Webb, Alfred (1878). " Balfe, Michael William". A Compendium of Irish Biography. Dublin: M. H. Gill & son. Wikisource
Barrett, W. A. Balfe, His Life & Work (London - 1882)
Biddlecombe, George. English Opera 1834-64 and the works of Michael W. Balfe (New York - 1994)
Kenny, C. L. A Memoir of Michael W. Balfe (London - 1875)
Phelan, Robert. William Vincent Wallace, Celtic Publications (1994)
Tyldesley, William. Michael W. Balfe: His Life and His English Operas , Aldershot, Hants, England; Burlington, VT: Ashgate (2003) ISBN 0-7546-0558-2
Walsh, Basil. A Unique Victorian Composer (2007)
Walsh, Basil. Extensive website on the life and work of Michael W. Balfe
Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Balfe, Michael William" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
外部リンク