ボリル
ボリル (ブルガリア語 : Борил , Boril)は第二次ブルガリア帝国 の皇帝 (ツァール 、在位:1207年 - 1218年 )。皇帝カロヤン・アセン の姉妹の子で、カロヤンの甥にあたる[ 1] 。
生涯
ボリル在位中のブルガリアの支配領域
1207年にカロヤンがテッサロニキ 包囲中に暗殺された後、カロヤン暗殺の計画に加わっていたボリルが帝位に就いた[ 1] [ 2] 。ボリルが帝位に就いた後、カロヤンの二人の息子アレクサンダルとイヴァン (イヴァン・アセン2世)は国外に亡命し、クマン人 の保護下、次いでガーリチ・ヴォルイニ公国 に逃れる[ 3] [ 4] 。即位したボリルは地位を固めるため、カロヤンの未亡人と結婚した[ 5] 。
治世の初期に、ボリルは一族の反乱に直面する。ボリルの兄弟のドブロミル・ストレスはセルビア の大ジュパンステファン・ネマニッチ の支援を受けて、マケドニア のプロセク を拠点として反乱を起こした。1207年 にはロドピ山脈 南部のメルニク (英語版 ) の統治官アレクシィ・スラフが、ラテン帝国 と同盟して独立を宣言した。軍事衝突と和平を交渉を経て、1209年にストレスはデスポト (専制公)の一つ下の地位であるセヴァストクラトル の称号を認められ、1214年 に没するまでボリルと同盟を結んだ[ 6] 。
ボリルは、カロヤン時代の反ラテン帝国 政策を継承した[ 2] [ 3] 。ボルイ(Boruy)の戦闘ではラテン帝国に勝利を収めたが、フィリッポポリス(プロヴディフ )の戦闘でラテン皇帝アンリ1世 に敗れ、状況はより悪化する[ 7] 。敗戦の結果、トラキア 北部とロドピ山脈の城塞がラテン帝国の支配下に入った[ 8] 。バルカン山脈 南部におけるブルガリアの影響力は消滅し、ストレスの反乱はマケドニアに多大な被害をもたらした[ 9] 。
1211年 /13年 、ヴィディン の4人のクマン人貴族がボリルに対して新たに反乱を起こした[ 10] 。ボリルは独力で反乱を鎮圧することができず、セルビア、ラテン帝国、半独立のボヤール(大貴族)から支援は得られなかった[ 11] 。ボリルはハンガリー に助けを求め、シビウのヨアキムがヴィディンの反乱軍を撃破し、町を制圧した[ 7] 。だが、ボリルはハンガリーに支援の代償としてベオグラード を割譲しなければならなかった。
ボリルへの不満は貴族だけでなく下層の民衆にも広がり、ボゴミール派 の拡大という形で表れた[ 3] 。1211年にボリルは首都タルノヴォ で反ボゴミール派の集会を開く。ボゴミール派からの改宗を拒んだ者には厳罰が加えられたが、ブルガリア社会に定着していたボゴミール派の根絶は不可能だった[ 9] 。ガリツィア に亡命したイヴァンがブルガリア皇帝位を要求するようになると、ボリルは妻を亡くしたアンリ1世に自分の義理の娘(妻と前夫カロヤンとの間の娘)との結婚を提案した[ 12] 。アンリはカロヤンの血族との結婚を渋ったが、ラテン帝国の貴族の説得とローマ教皇 インノケンティウス3世 の仲介によって、1213年にブルガリアとラテン帝国の婚姻同盟が成立した[ 13] 。花嫁は多くの贈物を携えて、ラテン帝国の首都コンスタンティノープル に送られた。
ラテン帝国、ハンガリー王国、エピロス専制侯国 と同盟したボリルはセルビアとの戦争に引きずり込まれ、1214年 にストレスを殺害した後に戦況はやや好転する。しかし、同1214年にブルガリア・ラテン連合軍はセルビアとの戦闘で敗北する[ 9] 。1216年 にアンリ1世が没し、1217年 にハンガリー王アンドラーシュ2世 が第5回十字軍 に参加するため中東に赴き、強力な支持者を失ったボリルはブルガリアに取り残された[ 9] 。1217年にロシアの傭兵を率いたイヴァンがガリツィアから帰国し、イヴァンに敗れたボリルはタルノヴォに籠城する。7か月に及ぶ包囲の末にボリルはタルノヴォを放棄し、イヴァンがブルガリア皇帝位を勝ち取った[ 2] 。脱出の際にボリルは捕縛され、盲目にされて修道院に幽閉された。
脚注
^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、90頁
^ a b c 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、123-124頁
^ a b c ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、91頁
^ Curta, Florin (2006). Southeastern Europe in the Middle Ages, 500-1250 . Cambridge University Press. p. 384. ISBN 0-521-81539-8
^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、718頁
^ Van Antwerp Fine, John (1987). The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman conquest . University of Michigan Press. p. 97. ISBN 0-472-08260-4
^ a b Curta, 2006, 385頁
^ Vásáry, István (2005). Cumans and Tatars: Oriental Military in the Pre-Ottoman Balkans, 1185-1365 . Cambridge University Press. ISBN 0-521-83756-1
^ a b c d 尚樹『ビザンツ帝国史』、719頁
^ V.A.Fine, 1987, 99-100頁
^ Vásáry, 2006, 385頁
^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、698頁
^ 尚樹『ビザンツ帝国史』、698,719頁
参考文献
尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)
森安達也、今井淳子共訳編『ブルガリア 風土と歴史』(恒文社, 1981年)
I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア』1(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)