サーサーン朝末期頃に編纂されたと思しきパフラヴィー語文書『パーパグの子アルダフシールの行伝』(Kārnāmag ī Ardaχšīr ī Pāpagān)に残されている、ペルシアの伝統と歴史の中のアルダシール1世の箇所には、ホルミズド1世はアバルサース(不詳)の王ミフラグ(Mihrak/Mihrag < Miθrak)の娘の間に生まれたとある。ミフラグはペルシアの君主で、その一族はアルダシール1世に滅ぼされた。マゴス神官(マギ)が彼にミフラグの血統を絶やさねばいつかまたペルシアを復興させてしまうだろうと予言したからだった。(下記のタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』では占星術師たち(munajjimān)が「ミフラクの後裔が汝の王国を手にするだろう」と言ったとしている)
この娘だけが農夫の手によって守られていた。シャープール1世は彼女と出会い、妻とした。ホルミズド1世はしばらくしてアルダシール1世に認められた。また9世紀から10世紀前半に活躍したアッバース朝を代表する歴史家タバリーの主著『諸使徒と諸王の歴史』(Ta'rīkh al-Rusul wa al-Mulūk)の中にも一部このようなものが残されており、この伝説の中では、シャープール1世の大征服はホルミズド1世に書き換えられている。(10世紀のバルアミーによる『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語訳本である『タバリー史』によると、ミフラクの娘は10歳の時にアルダシールから逃れてある羊飼いのもとに匿われたもので、この羊飼いのテントで彼の妻と一緒に養育されていたと言う。容姿も美しく成長したこの娘は、15年後、狩りに出て偶々この老羊飼いのテントの近くを訪れたシャープールにみそめられ、シャープールは金銀の結納で着飾らせて自らの妻となし、このミフラクの娘との間にホルミズドを儲けたという)しかし実際にホルミズド1世が統治した期間は、わずか1年と10日に過ぎない。