大統領により政府特派員という身分を与えられた上で、マリアテギは1923年までイタリア・フランス・ドイツ・オーストリアをめぐり、マルクス主義を知り社会主義への傾倒がいっそう強まった。帰国後、ゴンサレス・プラダ人民大学の講師をつとめ、学生連盟の機関紙『クラリダ』を編集した。この雑誌にはアメリカ革命人民同盟の創設者ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)が関わってる。さらに1926年『アマウタ』誌を発刊し、1928年に主著『ペルーの現実解釈のための七試論 7 ensayos de Interpretación de la Realidad Peruana』を発表した。同じ年、かつての盟友アヤ・デ・ラ・トーレと路線の対立により訣別し、9月16日にペルー社会党を創立し、自らは書記長となった。1929年のペルー労働総同盟(CGTP)の結成に尽力するも、その年の5月にラテン・アメリカ労働組合会議、6月の第1回ラテン・アメリカ共産主義者会議において、ペルー社会党の綱領はコミンテルン派の非難を浴び、すでに病床にあったマリアテギは反論するいとまなく、翌年4月に没する。