火折尊(ほのおりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)、あるいは彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、日本神話に登場する神。瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子であり、神武天皇(初代天皇)の祖父。「山幸彦」として知られる。
概要
『古事記』では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、第一子が火照命(ホデリ=海幸彦)、第二子が火須勢理命(ホスセリ)、第三子が火遠理命(ホオリ=山幸彦)である。
『日本書紀』の本文では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、第一子が火闌降命(ホスソリ=海幸彦)、第二子が彦火火出見尊(ヒコホホデミ=山幸彦)、第三子が火明命(ホアカリ)となっている。一書では海幸彦が火酢芹命(ホスセリ)、山幸彦が彦火火出見尊(もしくは火折尊)となっている。
「彦火火出見尊」は神武天皇の諱でもあり、祖父と孫が同一名ということになる。海神の助けを得て兄の海幸彦を征し、海神の娘である豊玉姫との間に彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(神武天皇の父)を得た。
『古事記』では、高千穂宮に580年居住し、高千穂山の西に葬られたとされる。一方『日本書紀』では、久しくして崩じ日向の高屋山上陵に葬られたとされる。
名
- 彦火火出見尊(ひこほほでみ の みこと) - 『日本書紀』
- 火折尊(ほのおり の みこと) - 『日本書紀』第九段第一の一書、第十段第四の一書
- 火折彦火火出見尊(ほのおりひこほほでみ の みこと) - 『日本書紀』第九段第三の一書
- 火遠理命(ほおり の みこと) - 『古事記』
- 天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ ひこほほでみ の みこと) - 『古事記』
神話での記述
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』本文に拠る。
彦火火出見尊は天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子である。別名は火折尊。母は大山祇神の娘の木花開耶姫。火中出産の時に「熱を避りて居たるときに生り出ずる児」であるという。『日本書紀』に拠れば兄に火闌降命、弟に火明命がいる。ただし火明命は一書では兄とも伯父ともされ『古事記』には登場しない。
兄の火闌降命と弟の彦火火出見尊は生まれながらに各々釣針と弓矢という「幸」を持っていた。そこで火闌降命は海幸彦、彦火火出見尊は山幸彦と呼ばれるようになった(『古事記』での海幸彦は火照命という神であり、火闌降命は何の事績もない系譜だけの神となっている)。
あるとき海幸彦と山幸彦は試しに「幸」を交換してみたが、どちらもうまくいかなかった。そこで「幸」をお互いに返すことにしたが弟は兄の釣針を無くしてしまっていた。激怒した兄は弟がいくら代わりの釣針を作っても許さなかった。
困った山幸彦は塩土老翁と出会い海神の宮に送ってもらった。宮はとても立派なものだった。門の前の井戸のそばにあった湯津杜(ゆつかつら)の樹の下でさまよっていると一人の美人(おとめ)が扉を開けて出て来た。海神の娘の豊玉姫である。豊玉姫はただちに父母に相談して山幸彦を招き入れ海に来た理由を尋ねた。海神が大小の魚を集めて問いただすと赤女(鯛)がこのごろ口の中が痛いと言っているので、その口を探すと失った釣針が見つかった。しかし海神は釣針をすぐには山幸彦に渡さず、豊玉姫を娶らせて海に留めた。
山幸彦が海の宮に住んで三年が経った。そこは安らかで楽しかったが故郷が懐かしく、たまにひどくため息をつくことがあった。豊玉姫はそれを聞いて父に「もうかわいそうなので返してあげましょう」と語った。海神は山幸彦に釣針を渡して身を守るための呪文と玉を授けた。帰る時になって豊玉姫は自分が妊娠していることを告げ、産屋を建てて待っているように言った。山幸彦は地上の本宮(もとのみや)に帰り海神の教えの通りに海幸彦を征した。海幸彦は吾田君の小橋などの隼人の祖とされる。
豊玉姫は妹の玉依姫を連れて約束通りに陸にやってきた。産屋にこもった豊玉姫は絶対に中を覗かないよう言った。しかし我慢できない山幸彦がこっそり覗くと豊玉姫は龍に姿を変えていた(『古事記』では八尋和邇)。姫は覗き見られたことを恥じて海に去った。遺された子の名を彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と言う。久しくして山幸彦こと彦火火出見尊は崩じ、日向の高屋山上陵に葬られた。『古事記』では高千穂宮に580年居住し、高千穂山の西に葬られたとする。
『日本書紀』の一書によれば、豊玉姫は鸕鶿草葺不合尊を養うために自らの妹の玉依姫を派遣したという。『先代旧事本紀』によれば、火折尊と玉依姫の間には武位起命がうまれたというが、記紀にはこの記載はなく、武位起命を玉依姫の甥とする系図[1]もある。なお、玉依姫はのちに自らの甥にあたる鸕鶿草葺不合尊の妃となり、神武天皇(初代天皇)などを産んでいる(後述)。
系図
妻子
- 后:豊玉姫(とよたまびめ、豊玉毘売命) -『古事記』、『日本書紀』
- 海神豊玉彦命の娘[1]。「豊玉姫」・「豊玉彦」のように、ヒメとヒコの二者(この場合は父娘)がペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれる。
- 子:彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせず の みこと/ふきあえず の みこと、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命) - 『古事記』、『日本書紀』
- 神武天皇(初代天皇)の父。
- 妻:玉依姫?(たまよりびめ) - 『先代旧事本紀』
- 豊玉姫の妹。
- 子:武位起命?(たけいき の みこと) - 『先代旧事本紀』
宮
『日本書紀』に宮の記載はなく、第十段第二の一書に「本宮(もとのみや)に戻る」とのみある。先代から変わらず吾田長屋笠狭岬にあるということになる。
『古事記』には、火遠理命の宮として高千穂宮の記載がある。鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)はこの高千穂宮の跡地と伝えられる[2]。ただ高千穂宮もまた『古事記』で邇邇芸命が建てた高千穂峯の宮と同一と思われ、先代から宮が変わっていないことに違いはない。また青島神社(宮崎県宮崎市)も火折尊の宮の跡と伝えられる[3]。
陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)。宮内庁により鹿児島県霧島市溝辺町麓字菅ノ口の円墳に治定されている(位置:北緯31度49分36.83秒 東経130度41分28.79秒 / 北緯31.8268972度 東経130.6913306度 / 31.8268972; 130.6913306 (高屋山上陵(伝天津日高彦火火出見尊陵)))。宮内庁上の形式は円丘。
埋葬地の伝承地は南九州各地にあり、明治元年に三島通庸らが、明治3年に田中頼庸らが、明治6年に樺山資雄がそれぞれ調査し、翌年の明治7年(1874年)に明治政府が鹿児島県霧島市にある霧島山麓を高屋山上陵に治定した。これは古事記の「高千穂山の西」という記述に基づき、「高千穂山」を高千穂峰とみなして定めたものである。他に宮崎県高千穂町内の古墳、鹿児島県肝付町の国見山、鹿児島県南さつま市の野間岳、宮崎県宮崎市村角町の高屋神社なども彦火火出見尊の神陵という伝承がある。
脚注
出典
参考文献
関連項目