Pedro de Alcântara Francisco António João Carlos Xavier de Paula Miguel Rafael Joaquim José Gonzaga Pascoal Cipriano Serafim ペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルロス・ザビエル・デ・パウラ・ミゲル・ラファエル・ジョアキン・ジョゼ・ゴンザガ・パスコアール・シプリアーノ・セラフィン
彼はアルカンタラの聖ペドロにちなんで命名された[5]。彼の全名はペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルルシュ・シャヴィエル・デ・パウラ・ミゲル・ラファエル・ジョアキン・ジョゼ・ゴンザーガ・パスコアル・シプリアーノ・セラフィン(Pedro de Alcântara Francisco António João Carlos Xavier de Paula Miguel Rafael Joaquim José Gonzaga Pascoal Cipriano Serafim)[6]である。彼は「ドン("Dom")」の称号を有する[7]。
ペドロの学業が幅広いのにもかかわらず、彼の教育の欠如は明らかだった。歴史学者のオタヴィオ・タルクィニオ・デ・ソウザ(Otávio Tarquínio de Sousa)によれば、ペドロは「疑いなく知的で、頭の回転が速く、洞察力に優れていた」という[32]。しかし歴史学者のロデリック・バーマン(Roderick J. Barman)は、彼は生まれつき「威勢が良すぎ、一貫性がなく、感情的すぎた」。彼は衝動的なままで、決して自己を律することやあるいは自分の決定の結果を評価し、状況に合わせて物の見方を変えることを学ばなかった[33]。
1817年5月13日、ペドロはマリア・レオポルディナと代理結婚した。[45][46]11月5日、彼女がリオデジャネイロに到着したとき、彼女はすぐに、ペドロと恋に落ちた。彼は彼女が予想していた以上に魅力的だった。「熱帯の太陽の元で何年も過ごした彼の顔色は明るく、頬はバラ色であった」。19歳の王子は眉目秀麗で、平均よりやや高めの身長、輝く黒い瞳に暗い茶色の髪をしていた。[34]歴史家ニール・マコーレイは以下のように書いている。「彼の良い容姿は、誰もがぎこちなくなる思春期にさえ毅然とした身のこなしと非の打ちどころのない身だしなみに多くを依っていた。習慣的にこざっぱりと清潔にし、彼は頻繁に入浴するブラジルの習慣に親しんでいた」。[34]代理結婚の誓約を追認した次の日に結婚のミサがのちに挙行された。[47]2人の間には7人の子どもが生まれた。マリア・ダ・グロリア、ミゲル(en:Miguel, Prince of Barlos, Prince of Beira)、ジャヌアリア・マリア、パウラ(en:Princess Paula of Brazil)、フランシスカ、ペドロ・デ・アルカンタラ(のちのブラジル皇帝ペドロ2世)である。[48]ただし、レオポルディナは自分の事をハプスブルク家の犠牲者と呼び、自分は間もなく夫の暴力により死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に29歳で死去している。
数か月後、皇帝は父王が1826年3月26日に崩御した知らせを受け取った。彼はポルトガル王位を継承しポルトガル国王ペドロ4世となった[119]。ポルトガルとブラジルの再統合が両国国民には容認できないことを知る彼は、すぐにポルトガル王から退位した。5月2日にペドロ1世はポルトガルとブラジルの王位の兼任を諦めた。このことはよく知られているが、ギリシャ王位の打診があったことはあまり知られていない。1822年4月ペドロが摂政王子だったころにギリシャ独立戦争のさなかのギリシャ政府によってギリシャ国王の打診があったが、彼はこれを丁重に断っている。はたしてギリシャ王にはバイエルン王子のオットーがギリシャ王国の国王オソン1世として即位した(Costa 1995, pp. 172–173)。ペドロ1世はまた1826年と1829年の二度にわたりペドロの伯父フェルナンド7世の絶対君主制に反対する自由主義者からスペイン王位の打診を受けている。ポルトガルとスペインの自由主義者は1830年にペドロを「イベリア皇帝」にすることで合意している。何も起こらなかったことから、彼はこの申し出もまた断ったようである(Costa 1995, pp. 195–197)。しかしながらブラジルの歴史家のセルジオ・コレッラとポルトガルの歴史家アントニオ・サルディニャは、わずかながら自由主義者への支援の証拠について論じている。すなわち、ペドロ1世のブラジル皇帝位を退位してポルトガル王である弟とスペイン王である伯父を廃位し、皇帝としてイベリア半島を統治しようとすることを示唆させる誘因の一つであるとする(Costa 1995, pp. 197, 199)[120][121]。
1829年のはじめには退位とポルトガル行きの考えは彼の心の中に芽生え、彼はしばしばそれについて話していた。[192] 思いつきを行動に移す機会はすぐに現れた。自由主義者の中の急進派はリオデジャネイロのポルトガル人共同体に嫌がらせをするために町のごろつきを扇動した。1831年3月11日、「割れた瓶の夜("noite das garrafadas")」として知られる事件で、ポルトガル人は報復し、騒動は首都の街頭に広まった。[193][194]4月5日、ペドロ1世は事態収拾の命令に対する無能力を理由に3月19日に組閣されたばかりの自由主義内閣を解散した。[188]。[195]急進派によって煽られたより大きな群衆は4月6日の午後にはリオデジャネイロの中心部に集まり、倒された内閣の復帰を要求した。[196]皇帝の返答は「余は人民のためにはあらゆることをするが人民に強いられたことはしない」であった。[197]日暮れののち、近衛兵を含む軍はペドロ1世を見捨て、抗議者たちに合流した。ここにきて彼はいかに自分が孤立し、ブラジル情勢から切り離されている状態になっていたかを悟った。皆が驚いたことに、4月7日の3時ごろに彼は退位した。[198]退位の勅書が伝令によって届けられると彼は言った。「これが我が退位の詔勅である、余はヨーロッパに戻り、余が深く愛し、なおも愛すこの国を離れる」[199][200]
4月7日の夜明け、ペドロ、妃と皇女マリア・ダ・グロリアと妹アナ・デ・ジェズスを含む者たちはイギリスの戦艦 HMS ウォースパイトの甲板上の人となった。艦船はリオデジャネイロ沖で投錨し、4月13日に前皇帝はヨーロッパ行きのHMS ヴォラージに乗り換え、出発した[202][203]。6月10日に彼はフランスのシェルブール=オクトヴィルに到着した[204][205]。続く数月間に、彼はフランスとイギリスの間を往来した。彼は温かく歓迎されたものの、両国から実質的な支援は受けられなかった[206]。彼はブラジル皇室においてもポルトガル王室においても公的な地位を保持していないという厄介な状況にいることを悟り、ペドロは6月15日にブラガンサ公の称号を名乗った。この称号は彼がポルトガル王位継承者だったとき一度称したものである。
パリでは、ペドロはラファエット侯ジルベール・デュ・モティエと知己をえた。アメリカ独立戦争に参加した侯は彼の最も忠実な支援者となった。[208][215]1832年1月25日、ペドロはラファイエットの家族と本人と200人もの有志とに別れを告げた。彼はマリア2世を前に、跪きこういった「女王陛下、ここには陛下の権利を支持し王冠を取り戻さんとするポルトガルの将軍が一人います」。マリアは涙を流し父を抱擁した。[216]ペドロは大西洋のアゾレス諸島に帆走した。同諸島はマリア2世に忠実な唯一のポルトガル領土であった。数か月の最終準備の後、ペドロはポルトガル本土へ出港し、7月9日には反対もないままポルト市に入った。[217]彼は、外国の傭兵や ラファイエットの孫のアドリアン・ジュール・ド・ラステリー(Adrien Jules de Lasteyrie)のような義勇兵同様に、アルメイダ・ガレットとアレシャンドレ・エルクラノのようなポルトガルの自由主義者で構成される小規模な陸軍の指揮官になった。[218]
数でひどく劣るペドロの自由主義軍は1年以上の間、ポルトで包囲を受けた。1833年のはじめ、ここに彼はブラジルのジョゼ・ボニファシオからパウラ王女が危篤である報を受け取った。ペドロは彼の子どもたちの傅役に二つの要求をした。「第一は、彼女の美しい遺髪を私のために残してほしい。第二は彼女を「良き救いの聖母の女子修道院(Nossa Senhora da Ajuda) 」に安置してほしい。同修道院は彼女の良き母にしてわが后マリア・レオポルディナの遺体が安置されている場所である。亡き妻のために、きょうさえは私は思慕の涙を流している。…私は父として汝に、哀れな寂しい父として、自ら彼女の母の遺体の隣に、その子宮に授けられし子を横たえ、二人のために祈ってくれるよう頼む」。[219]
^1822年9月7日のペドロの騎馬を目撃した2人、ベルキオール・ピニェイロ・デ・オリヴェイラ(Belquior Pinheiro de Oliveira)神父の1826年9月7日の記録と、マヌエル・マルコンデス・デ・オリヴェイラ・エ・メロ(Manuel Marcondes de Oliveira e Melo、のちのピンダモニャンガバ男爵)の1862年4月14日の記録の両方とも、ペドロの馬はベスタ・バイア (besta baia つまり鹿毛の獣) (Costa 1972, Vol 295, pp. 74, 80)であったと記している。1853年刊行の書物とアントニオ・レイテ・ペレイラ・ダ・ガマ・ロボ(Antônio Leite Pereira da Gama Lobo)大佐と歴史家のパウロ・アントニオ・ド・ヴァレ(Paulo Antônio do Vale)ら他の目撃者の証言に基づくと、それはザイノ("zaino"、鹿毛の馬)(Costa 1972, Vol 295, pp. 75, 80)であった。「ベスタ・バイア」と「ザイノ」が意味するものは一見似ており曖昧である。ポルトガル語の「ベスタ」は、英語のbeastと同じように、人間以外の動物、とくに大型の四足歩行の哺乳類を指す。しかし、ブラジルでは昔はベスタとは牝馬をさし、1946年刊行の辞書(Freira 1946, p. 1022)及び1968年(Carvalho 1968, p. 158)の辞書にも認められる。この用法はブラジルの北東部および北部地域を除く地域では途絶えているが(Houaiss & Villar 2009, p. 281)、ポルトガルではいまだに牝馬の意味で「ベスタ」を使用することがある(Dicionários Editora 1997, p. 205)。したがって、性別を問わない「ザイノ」と「鹿毛の獣(牝馬)」は一致する。ペドロの2人の伝記作家、ペドロ・カルモン(Pedro Calmon)(Calmon 1975, p. 97)とニール・マコーレイ (Macaulay 1986, p. 125)はペドロの愛馬を鹿毛の牝馬と断定している。ペドロは1日で平均108kmほどを騎行できる傑出した騎手で、護衛と随行者を置いてたった5日間でこの馬でサンパウロから首都リオデジャネイロまで踏破している(Costa 1972, Vol 295, p. 131)。ペドロの腹心「オ・シャラサ」("O Chalaça"、「道化者」)ことフランシスコ・ゴメス・ダ・シルヴァ(ポルトガル語版)は8時間ほど遅れてペドロの次に首都へ帰還した(Costa 1972, Vol 295, p. 133)。
^当時、口論が白熱してペドロ1世がマリア・レオポルディナの子宮を蹴ったという根拠のない噂が広まった。夫婦喧嘩はドミティリア・デ・カストロとマーレシャル(Mareschal)男爵ヴェンツェル・フィリップ・レオポルドによって目撃されている。駐ブラジルの大臣としてマリア・レオポルディナの父帝に仕えており、それゆえ彼女の肩を持つ理由があるマーレシャルは実際に何が起きたかを記録したただ一人の目撃者であった。彼によれば、夫婦は苦々しく諍い、互いを罵り合ったが、物理的な暴力については何も記録がない(Rangel 1928, pp. 162–163; Calmon 1975, pp. 14–15; Costa 1995, p. 86)。歴史家のアルベルト・ランゲル(Rangel 1928, p. 163)、ペドロ・カルモン(Calmon 1950, p. 137; Calmon 1975, p. 14)、オタヴィオ・タルクィニオ・デ・ソウザ (Sousa 1972, Vol 2, p. 242)、セルジオ・コレア・ダ・コスタ (Costa 1995, p. 86)とロデリック・J・バーマン(Barman 1999, p. 17)はペドロ1世が妻に物理的な危害を加えた可能性を否定し、確かなのは激しい言葉に限定された言い争いだけであるとした。しかしながら、1831年でもこの噂は、告発が根拠不明なのにも関わらず、実際に起きたと信じている人々によって記憶され続け、なおもささやかれていた(Sousa 1972, Vol 2, p. 242)。バーマンはマリア・レオポルディナの死は「内外いずれにおいても、神聖性の名残」をペドロ1世からはぎ取ったとして、ペドロの皇后への暴力を否定する説をとっている。(Barman 1988, p. 147)。
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