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艦歴
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起工 |
1907年
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進水 |
1908年
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竣工 |
1908年8月8日(海峡連絡船として)
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借り上げ |
1915年1月1日
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就役 |
1915年
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戦没 |
1917年カステロリゾ島沖にて撃沈。
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その後 |
1921年残骸を回収。
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性能諸元
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排水量
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常備 |
3,880t
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全長 |
118 m(390 ft)
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水線長 |
114 m(375 ft)
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全幅 |
14 m(46 ft)
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吃水 |
5.5 m(18 ft)
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機関
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形式不明石炭専焼水管缶4基 +形式不明直結タービン3基3軸推進
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最大出力 |
14,500shp(10Mw)
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最大速力 |
24.5ノット
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燃料 |
石炭:552トン 航空燃料:-トン
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乗員 |
250名
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武装
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12ポンド:7.62cm(40口径)単装速射砲 |
4門
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3ポンド砲 |
2門
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1916年改装
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12ポンド砲 |
5門
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3ポンド砲 |
3門
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2ポンド ポンポン砲 |
1門
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搭載機
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水上機:最大6機、通常4機
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ベン・マイ・クリー (HMS Ben-my-Chree) はイギリス海軍の水上機母艦。フェリーから改装された艦である。艦名はマン島語でLady of My Heart(我が心の淑女)を意味する。
艦歴
1908年、乗客2,500人を2つのクラスにて運ぶフェリーとして進水し、マン島航路で運用された。第一次世界大戦の勃発に伴い、1915年1月1日にイギリス政府によって借り上げられ、水上機母艦に改装された。後部に格納庫及び水上機の揚収用クレーンが設けられ、発進には前方を用い、整備設備も追加された。
当初はハリッジを母港とし、ベルギー沿岸で活動した。3月3日、ソッピース・シュナイダーによるドイツ沿岸の空襲を試みたのが、初の実戦であった。但し、濃霧のためこの空襲自体は中止された。5月6日、駆逐艦「レノックス」と衝突したが、損傷は軽微であった。5月11日には、再度の空襲を試みるが果たせず、さらに飛行船を発見して迎撃を試みたが、エンジン不良によりこちらにも失敗した。
5月末、搭載機を砲撃観測に用いるため、ダーダネルス海峡へ向けて出港した。8月12日、搭載機ショート 184による14インチ航空魚雷の使用により、史上初の搭載機による艦艇攻撃を果たした。この時目標となった艦は、既にE級潜水艦「E14」による雷撃を受け、座礁していたものであったが、17日には航行中の船舶に対する雷撃を行い、成功させている。
ガリポリの戦いの終息と共に、ポートサイドに移動したが、2月11日、同地で蒸気船「ウガンダ」と衝突し船首に損傷を受け応急修理を余儀なくされた。3月13日から4月26日にかけてドック入りし、本格的な修理が行われた。その後数ヶ月にわたりポートサイド及びアデンを根拠地として観測、偵察、空襲に従事した。
1917年1月11日、ドデカネス諸島のカステロリゾ島沖に停泊中、トルコ軍の陸上砲台からの砲撃によって撃沈された。残骸は、1921年に引き上げられた。
参考文献
外部リンク