第3代バクルー公爵および第5代クイーンズベリー公爵ヘンリー・スコット(英: Henry Scott, 3rd Duke of Buccleuch and 5th Duke of Queensberry、1746年9月2日 - 1812年1月11日)は、イギリス(スコットランド貴族)の貴族。ガーター勲章勲爵士(KG)、アザミ勲章勲爵士(KT)、エディンバラ王立協会(英語版)フェロー(FRSE)。
経歴
1746年9月2日、第2代バクルー公爵フランシス・スコットの長男であるダルキース伯爵フランシス・スコットと第2代アーガイル公爵ジョン・キャンベルの娘であるキャロライン・キャンベル(英語版)(後の初代グリニッジ男爵)の間に第2子として生まれた[1][2][3]。兄はすでに早世していたため父が1750年に死去すると公位継承者となり、翌1751年祖父の死去により4歳で襲爵。
イートン・カレッジで学んだ後、アダム・スミスを家庭教師に2年間フランス王国とスイスへグランドツアーを行った[2][3]。1766年に同行していた弟キャンベルがパリで病死したため帰国。政治家になることを考えていたが断念し、先祖伝来のダルキース城(英語版)(ミッドロージアン州ダルキース)に住んだ[3]。
文学趣味から1762年にエディンバラで設立されたポーカークラブ(英語版)に参加し、また1783年に設立されたエディンバラ王立協会の初代会長も務めた[3]。
1767年12月23日にアザミ勲章を[4]、1794年5月24日にガーター勲章を受勲[5]。1777年から1812年までロイヤルバンク・オブ・スコットランド総裁[1]。
母親が1794年に死去すると、エディンバラ北部のグラントン(英語版)にあるキャロライン・パーク(英語版)を相続した[2][3]。また第4代クイーンズベリー公爵ウィリアム・ダグラスが未婚のまま1810年に死去すると、第2代クイーンズベリー公爵ジェイムズ・ダグラスの定めた限嗣相続規定により、第2代クイーンズベリー公爵の娘を祖母にもつバクルーがクイーンズベリー公爵位とドラムランリグ城(英語版)を始めとするダグラス家の財産を相続した[3]。これにより孫の代から家名にダグラスが加わった[6]。
柔和で寛大な性格により彼は「デューク・ヘンリー」と呼ばれ親しまれ、遠縁でもあった友人のサー・ウォルター・スコット準男爵(高名な文学者)は「彼の名は、富者からの賞賛、あるいは貧者からの祝福なしで言及されることがなかった」と述べた[3]。
1812年1月11日にダルキースで死去し、同地に葬られた[2]。爵位は息子のダルキース伯爵チャールズが相続した[2][3]。
家族
1767年5月2日に、初代モンタギュー公爵ジョージ・モンタギューの娘であるレディ・エリザベス・モンタギューと結婚した[3]。これによりバクルーは、イングランドにモンタギュー公爵家が所有していた広大な地所と£150,000にのぼる動産・宝石を得[3]、子の代から家名にモンタギューが加わった[6]。
彼女との間に以下の三男四女をもうけた[1][2]。
出典
- ^ a b c Lundy, Darryl. “Henry Scott, 3rd Duke of Buccleuch” (英語). thepeerage.com. 2011年9月25日閲覧。
- ^ a b c d e f Paul, James Balfour, Sir [in 英語], ed. (1904). "SCOTT, DUKE OF BUCCLEUCH". The Scots peerage (英語). Vol. 2. Edinburgh: David Douglas. pp. 242–244. 2011年9月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Paton, Henry (1897). "Scott, Henry (1746-1812)". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 51. London: Smith, Elder & Co. pp. 25–26.
- ^ "No. 10792". The London Gazette (英語). 22 December 1767. p. 1. 2011年9月25日閲覧。
- ^ "No. 13665". The London Gazette (英語). 27 May 1794. p. 497. 2011年9月25日閲覧。
- ^ a b 森護 『英国の貴族』 大修館書店、1987年、p. 130
ウィキメディア・コモンズには、第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットに関するカテゴリがあります。