ヘルマン・ビルング(Hermann Billung, ? - 973年3月27日[1])は、ザクセン辺境伯。ビルング家の家祖。
生涯
ヘルマンの両親は不明である。また、ヘルマンはビルングの最初のザクセン公とされているが、正確なことはわかっていない。936年に東フランク王に即位したオットー1世(ザクセン公オットー2世)は、彼が不在の間のザクセン公国の統治をヘルマンに任せていた。しかし、公式文書ではヘルマンは「ザクセン公」ではなく、軍事指揮官、あるいはザクセン伯、ザクセン辺境伯などと署名していた。ヘルマンの息子のベルンハルト1世になって、ようやく正式なザクセン公と承認される。兄のヴィヒマンはオットー1世の母マティルデの姉妹と結婚していたが、弟ヘルマンが辺境伯に任ぜられると、これに対する不満から937年に対スラヴ族戦線を離脱し、翌938年のオットー1世の異母兄タンクマールの反乱に参加している[2]。
ヘルマンは東フランク王国の北東を防衛してスラブ人と戦った[3]。また、ヘルマンは自身の領地であるリューネブルクに聖ミヒャエル修道院を建設した。
子女
- ベルンハルト1世(950年頃 - 1011年)
- リウトガー(? - 1011年2月26日) - レウムとヴェストファーレンガウの伯
- マティルデ(935/45年 - 1008年5月25日) - 1.フランドル伯ボードゥアン3世と結婚、2.ヴェルダン伯ゴットフリート(アルデンヌ家)と結婚
- ズアンヒルデ(シュヴァンヒルト)(945/55年 - 1014年11月26/28日) - 1.マイセン辺境伯ティートマール1世と結婚、2.マイセン辺境伯エッケハルト1世と結婚
- インマ(? - 1002年) - ヘルフォルト女子修道院長(973-1002)
脚註
参考文献
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- Alfred Keseberg, Sachsenherzog Hermann Billung and Count Wichmann, Schweiger & Pick, 1973.
関連項目