プロイセン統治者の一覧(プロイセンとうちしゃのいちらん)では、嘗てのドイツ諸国の一つであったプロイセンの統治者を列挙する。
概要
プロイセンの本来の領域はバルト海沿岸に存在し、ドイツ騎士団がプルーセン、ポーランド、リトアニア一帯を制圧したものであった。この領域はポーランド=リトアニア共和国の宗主下でのプロシア公領、その支配から脱したプロイセン公国、そしてプロイセン王国となった。ドイツ帝国成立と共に構成国となり、帝政崩壊後はプロイセン自由州となった。
プロイセンの支配者は1618年から1806年まで同時にブランデンブルク選帝侯(辺境伯)を兼ねていたことから、1618年以降のプロイセンの歴史はブランデンブルク辺境伯とは密接な関係にある。
プロイセン公国(1525年 - 1701年)
プロイセン国王(1701年 - 1918年)
王政崩壊後
ドイツ帝国の崩壊後、プロイセンはヴァイマル共和国内の州邦「プロイセン自由州」となった。プロイセン自由州はドイツ国全土の3分の2を占め、大きな自治権を持っていた。
- プロイセン自由州の首相(共和政期)
1932年にドイツ首相フランツ・フォン・パーペンはクーデターを起こし、プロイセン自由州政府を罷免した。パーペンは国家弁務官に就任し、州を中央政府の統治下に置いた。
- 国家弁務官
1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が権力を掌握すると、国家弁務官の職は一時廃され、パーペンが首相となった。しかし、2月6日には再び国家弁務官職が設置され、州内相となったヘルマン・ゲーリングによって実質的に支配されるようになった。4月11日にはゲーリングが州首相となったが、次第に州の自治権は消滅したため、単なる称号の一つに過ぎなくなった。
- 州首相
- ライヒ代官(Reichsstatthalter)
1945年にナチス・ドイツが敗北するとプロイセン自由州は他の地域とともに分割・再編され、プロイセンは公的には1947年に消滅した。
本来のプロイセンにあたる東プロイセンはポーランドとソビエト連邦の間で分割された。
関連項目