大プリニウスはラテン語によるこの島々への術語を紀元70年ごろ『博物誌』4.102節で用いた。Albion ipsi nomen fuit, cum Britanniae vocarentur omnes de quibus mox paulo dicemus.(『島々全体』は Britannias と呼ばれる時、アルビオン(Albion)はその名である。)次の4.103節ではグレートブリテン、アイルランドおよびその他の小さな島々といったBritanniasを構成する島々を列挙している。
原住民によるこの島々への最古の集合的な用語の出典は、6世紀のアイルランドの僧侶聖コルンバによるブリテンの人々への伝道活動を記した『聖コルンバ伝(英語版)』である。これは7世紀末にアイオナ島にかなりの数のピクト人およびイングランド人の僧侶と共に住んでいたアイルランドの僧侶アドムナン(アイルランド語版)により書かれ、当時ブリテン諸島全体の権威と考えられていた。この作品ではこの諸島は「大洋の島々」の意の oceani insulae と呼ばれ[7]、使用は控えめだった。
他の原住民の典拠は8世紀に書かれたベダの Historia ecclesiastica gentis Anglorum にある。そこでは「島々」を意味する insularum が使われていた。
大陸のゲラルドゥス・メルカトル(1512年)、バルタザール・モレトゥス(1624年)、ジョヴァンニ・マジーニ(1596年)、アブラハム・オルテリウス(1570年)、ゼバスティアン・ミュンスター(1550年)が "British Isles" とした地図を制作した。オルテリウスはほとんどの地図で1570年にはイングランド、スコットランド、アイルランドは政治的に名目上は少なくとも分離していた見解をはっきりさせた:"Angliae, Scotiae et Hiberniae, sive Britannicar. insularum descriptio"(イングランド、スコットランドおよびアイルランド、またはブリテン諸島の記述)、加えてこの時期の多くの地図ではコーンウォールが別の国として描かれており、特にメルカトルがそうであった。