ヘイスティングズの戦いの後、戦死したイングランド王ハロルド・ゴドウィンソンの息子たち(ゴドウィンとエドマンド(英語版))はアイルランドの都市レンスターに逃亡し、その地の支配者であるディルミット王(en:Diarmait mac Máel na mBó)の支援を得た。1068-1069年、ディルミット王はゴドウィン・エドマンド兄弟にダブリン艦隊を貸与し、兄弟はその艦隊を率いてイングランド侵攻を試みたという。そして1069年夏(おそらく6月26日[3])、ブライアンはデヴォンに上陸したゴドウィン・エドマンド兄弟に軍勢を迎撃すべく兵を率いて当地域に進軍し、ノーサムの戦いで兄弟らの軍勢を打ち破った。その後、同年中にブライアンはウィリアム・フィッツオズベルン(英語版)と共にシュルーズベリー・エクセター地域に派遣された。両地域が反乱軍に包囲されていたためである。しかし、ブライアンとウィリアムは到着が遅すぎたことでシュルーズベリーの包囲を解けなかった。一方エクセターでは、エクセター守備隊が反乱包囲軍に対して果敢に反撃し、撤退していた反乱軍を道中で発見したブライアンらが撤退中の反乱軍に攻勢をかけたことで多数の反乱軍を討ち取ることに成功した[4]。
ハロルド王の息子たちを打ち破ったのち、ブライアン軍はアングロサクソン人地主のエアドリック(en:Eadric the Wild)の反乱を鎮圧すべく、ウィリアム征服王の軍勢が西方に向けて進軍する中で自身は北進し、その後ウィリアム王軍と合流したうえでスタッフォードで反乱軍を撃破した[5]。
^Morice, H. (1742) Histoire Ecclesiastique et Civile de Bretagne, Preuve, i, Paris, page 458, cited by Keats-Rohan, K. S. B. in William I and the Breton Contingent in the Non-Norman Conquest 1060–1087, in Proceedings of the Battle Conference (1991), edited by Marjorie Chibnall