1952年から1953年まで歩兵学校にて教官を務める。その後軍幕僚学校(英語版)に入校し、卒業後は1954年まで財務担当陸軍次官事務所(Office of the Assistant Secretary of the Army for Financial Management)に秘書として勤務。1954年から1957年まで陸軍長官秘書。1958年には陸軍大学校を卒業し、1959年まで欧州駐留の第6歩兵連隊(英語版)第3大隊に勤務。1960年、在ベルリン米軍司令部勤務を経てアメリカ欧州陸軍の通信担当参謀長を1961年まで務める。1961年から1964年まで、陸軍省議会連絡部(legislative liaison)の副部長および部長を務める。
ベトナム戦争(1964年 - 1972年)
1964年、ハワイに駐屯している第25歩兵師団の師団長に就任。ウェイアンドは第25歩兵師団長としてベトナムに派遣され、1965年から1966年まで戦った。1967年、第25師団長の職を退きベトナム第2野戦軍副司令官となり、後に司令官代行を経て司令官に就任した。第2野戦軍はベトナム共和国陸軍(ARVN, 南ベトナム陸軍)が指定する第3軍団戦術区(英語版)(サイゴンなど11の省)の防衛について責任を負っていた。1968年、予備役軍局(英語版)(Office of Reserve Components)の局長に就任。
ウェイアンドは情報将校としての長年の経験から、ウィリアム・ウェストモーランド将軍が提唱する従来型の戦術には反対していた。彼は「ベトナムにおける勝利の鍵とは、南ベトナムの集落の確保および平定にある」(the key to success in Vietnam was in securing and pacifying the towns and villages of South Vietnam)と主張していたという[3]。
2006年12月11日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された社説において、ベトナム戦争中にCBSの記者だったマーレイ・フロムソン(英語版)は、1967年8月7日に同紙に掲載された記事『Vietnam: The Signs of Stalemate.』(ベトナム:膠着の兆し)にて、担当記者だったR・W・アップル・ジュニア(英語版)とフロムソンの取材に応じ、前線の膠着を語った「匿名の軍高官」の正体はウェイアンド将軍であったと述べた。この記事はベトナム戦争が膠着状態に陥ったことを示唆した最初の記事であり、また戦争に対するアメリカの国民感情を変化させることにつながったとされる[5]。