七年戦争において、勤続年数とともに課せられた職務はシュペルケンにより大きな権限をもたらした。戦争が始まると、間もなくハノーファー軍の士官の中で最古参となったため、しばしば大規模な部隊を自ら指揮することになったのである。彼がそのために必要な能力を備え、直面した課題にいつでも対応できたとは言えない。戦場で示した働きには、時として改善の余地があった。しかし、課せられた他の任務において不手際を示すこともなかったのである。最高司令官、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント大将の信任厚い秘書官、フィリップ・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)は、公の指揮下に配された諸将のほとんどに非常に手厳しい評価を下しているが、その著書『ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フェルディナントの戦役の歴史』でシュペルケンについても「敗北した」(第2巻、P. 375)、「怠惰な」(第2巻、P. 570)者と書き、彼の「雑談」(第2巻、P. 376)に言及している。またヴェストファーレンはシュペルケン少将やクリストフ・ルートヴィヒ・フォン・オーベルク(ドイツ語版)少将について「一方は他方と同じくらい悪いが、これまでにオーベルクがシュペルケンよりもましであることが明らかになった。」と記述し、1758年5月にシュペルケンが序列争いの末、辞職を願い出た際に国王がそれを認めなかったことを遺憾とした。またフリードリヒ・リートエーゼル(英語版)中佐は、デトモルトからブラウンシュヴァイク公に宛てた1761年7月4日の手紙で「世界で最も誠実な男」(le plus honnête homme du monde)と書き、「しかしその様々な助言、報告や話し方は混乱を招きます。」(mais les differents conseilles, rapports et discours mettent tout en confusion)と付け加えている。プロイセン国王フリードリヒ2世が配下の諸将の何人かにしたように、ブラウンシュヴァイク公もシュペルケン少将が独自の判断を下す必要に迫られた際、何度も若い士官を傍に控えさせた。例えば自分の副官であった少尉で、後に少佐となるビューロウや、ビューロウが1761年の秋に没して以降はゲオルク・ヨシュア・ドゥ・プラ(ドイツ語版)工兵中佐がその役目に就いている。
「私は見たこともないものを見た。一列の歩兵が戦闘隊形を整えた三列の騎兵を突破し、打ち倒したのである。」 (J’ai vu ce qu’on ne vit jamais, une seule ligne d’infanterie percer et culbuter trois lignes de cavalerie, rangées en bataille.)
1760年、シュペルケンに課された任務はヴェストファーレンの保持、ヴェーザー川下流域の守備ならびにイギリスとの連絡の維持であった。その年の末には再び22個大隊、22個騎兵中隊、重砲44門、軽装部隊4,000名合わせて24,000名から構成される「小さな軍団」を託される。彼の傍らにはブラウンシュヴァイク公の高級副官、ビューロウが付いた。彼の助言に従い、ブラウンシュヴァイク公はシュペルケンに宛てた長い訓令の中で、防戦に徹する判断を委ねている。公はビューロウを傍に置いておきたかったが、「信頼できる者をシュペルケンの許に残すのは絶対に必要なことである」(il est indispensablement nécessaire de laisser un homme de confiance chez Spoercken.)とした。この時、彼はヘッセンにおいてマイン川の一帯から進出して来たブロイ公と対峙していた。そしてブロイ公がライン川方面から来たサン=ジェルマン伯爵中将との合流を果たすと、シュペルケンは再び主力軍へと呼び戻される。そして、ヴァルデック侯領のランダウ(ドイツ語版)でこれに合流した。その後はシュペルケンも参加した、犠牲の多い戦いが何度も繰り返された。その一例としては、特に彼とブラウンシュヴァイク公世子カール・ヴィルヘルム・フェルディナントが7月31日にヴァールブルクの戦いで手にした勝利が挙げられる。これによってブラウンシュヴァイク公はディーメル川(英語版)の戦線を保持できる見通しが立ち、シュペルケンは同地で第1集団ならびに軍の主力を指揮することになった。続いて11月の末、ブラウンシュヴァイク公がゲッティンゲンに進撃すると残された軍団の上級指揮権を託されている。その間、特筆するようなことは起こらなかった。
1760年から1761年にかけての冬、シュペルケンは亡くなったゾンマーフェルト大将に代わって近衛連隊の連隊長に任じられた。そして1761年の戦役は、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ズューブルク(ドイツ語版)少将とともに2月15日、フランス=ザクセン連合軍に対してランゲンザルツァで挙げた勝利とともに始まった。この戦いは、ブラウンシュヴァイク公が敵軍をヘッセンから駆逐するべく遂行した一連の作戦の一環である。しかしこの計画は失敗したため、軍団はディーメル川とヴェーザー川の戦線に戻った。戦役が最初から仕切り直しとなったのは、6月に入ってからである。シュペルケンに13,000名を託して残し、ブラウンシュヴァイク公はヴェストファーレンへ向かった。7月にはシュペルケンもそちらへ向かったが、フィリングハウゼンの戦いには参加していない。その後、彼は再びヴェーザー川の一帯で指揮を執った。ここでシュペルケンの下に配されていたブラウンシュヴァイク=リューネブルクのマンスベルク将軍が9月13日から14日にかけての夜、ノイハウス・イム・ゾリンク(ドイツ語版)においてフランス軍に襲撃された。ブラウンシュヴァイク公は、命令を余りにも言葉通りに受け取ったとしてその責をシュペルケンに問い、名誉を傷つける形で彼に対し不満を表明する。これを受けてシュペルケンは、自身を戦場におけるさらなる任務から解くよう国王ジョージ3世に願い出た。その請願の理由として、「一方的に本来受けるに値しない批難を浴びた上、それが官房書記を通じて届けられたこと」を挙げている。ブラウンシュヴァイク公は彼に、一時的にハーメルンへ赴く許可を与え、この機に「誠実、率直で上辺に留まらない友情(amitié sincère, non equivoque et nun simulée)」を約束した。この反目は仲裁される。それがどのように実現したかは、伝わっていない。戦争に関するハノーファーの文書には、勤務への復帰を決めたシュペルケンにジョージ3世が満足を表明した10月27日の書状が残るのみである。実際に彼は11月、ヴェストファーレンで冬営中の軍の指揮を担うと、翌年の戦闘序列には主力軍第1歩兵集団の指揮官としてその名が記されている。この軍団が集団で行軍する時、その一番目の戦列を彼が率いることになったのである。しかしブラウンシュヴァイク公は、どちらかと言えば特別な戦場における上級指揮権を公世子に託した。6月24日のヴィルヘルムスタールの戦いにおけるシュペルケンの行動は、クレーフェルトの戦いに似た批難を浴びる。彼の精力的な介入の欠如は、ここでも自軍の成功が存分に活かされず、戦果が充分に上がらなかったことの原因とされたのである。これはシュペルケンが参加した最後の戦いとなった。
G. W. v. Düring: Geschichte des Schaumburg-Lippe-Bückeburgischen Karabinier- und Jäger-Korps. Berlin, Posen und Bromberg 1828. – Zur Erinnerung an den Herrn von Monkewitz von H. F. Froriep, ビュッケブルク、 1789 (ビュッケブルクのギムナジウムの図書館に所蔵。)
C. v. Decker, F. v. Ciriacy, L. Blessson: Zeitschrift für Kunst, Wissenschaft und Geschichte des Krieges. Berlin, Posen und Bromberg 1828.