コンティ公フランソワ・ド・ブルボンの紋章
フランソワ・ド・ブルボン (フランス語 :François de Bourbon, 1558年 8月19日 - 1614年 8月3日 )は、コンデ公 ルイ1世 とその最初の妃エレオノール・ド・ロワイエ の三男。コンティ公位を与えられ、1581年から1597年にかけてプランスの身分に昇格した。コンティ公の称号は名誉的なものであり、領土に対する権利を持たなかった。
生涯
フランソワはイル=ド=フランス のラ・フェルテ=スー=ジュアールで生まれた。ブルボン家 の分家の一員であり、従兄弟は後のフランス王 アンリ4世 であった。プロテスタント の家庭で育ち、母エレオノールは1564年に亡くなり、続いて1569年に父ルイ1世も亡くなった。父親は1565年に再婚したフランソワーズ・ドルレアン=ロングヴィルとの間に3人の子供がいたが、シャルル・ド・ブルボン=ソワソン のみ成人した。
カトリックに属していたフランソワは、ギーズ公 アンリ1世 に対する不信感から同盟 に反対し、従兄弟であるナバラ王アンリ(後のアンリ4世)を支持することを宣言する1587年まで、ユグノー戦争 には参加していなかったようである。
1589年にアンリ3世が殺害された後、フランソワはアンリ4世を王として認める宣言書に署名した2人の王族のうちの1人であり、1590年のブルボン枢機卿シャルル1世 の死後には自身も王位候補として挙げられていたにもかかわらず、アンリ4世を支持し続けた。
フランソワの最初の妃は、ボンネターブルの女子相続人ジャンヌ・ド・コエムであった。ジャンヌはモンタフィエ伯との最初の結婚でアンヌ・ド・モンタフィエを産んでいた。フランソワとジャンヌは1581年12月17日にルーヴル宮殿で結婚式を挙げたが、ジャンヌは子供を産まずに1601年に亡くなった。1605年7月24日、ギーズ公アンリ1世とカトリーヌ・ド・クレーヴ の娘ルイーズ・マルグリット・ド・ロレーヌ(1588年 - 1631年)と結婚した。夫婦はムードン城で結婚式を挙げた。フランソワは1614年に死去し、一人娘マリーも生後3週間で1610年に先に亡くなっていたため、コンティ公の称号は1614年のフランソワの死後断絶した。
フランソワにはグラモン修道院長ニコラ・デ・コンティ(1648年没)という私生児がいた。
未亡人となったルイーズ・マルグリットはマリー・ド・メディシス の好意を得て領地を与えられ、密かにフランソワ・ド・バッソンピエールと結婚した。バッソンピエールはリシュリュー 枢機卿に対する陰謀に加わったが、陰謀が明らかとなると、リシュリューはルイーズ・マルグリットをアミアン近郊のウー にある領地に追放し、ルイーズ・マルグリットはそこで亡くなった。
子女
マリー(1610年3月8日 - 1610年3月20日) - 早世
脚注
参考文献
Knecht, R.J. (1989). The French Wars of Religion, 1559-1598 . Longman
Pitts, Vincent J. (2009). Henri IV of France: His Reign and Age . The Johns Hopkins University Press
Spangler, Jonathan (2016). The Society of Princes: The Lorraine-Guise and the Conservation of Power and Wealth in Seventeenth-Century France . Routledge
この記事にはアメリカ合衆国 内で著作権が消滅した 次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Conti, Princes of s.v. François ". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 7 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 27–28.