フランク・ロス・マッコイ (Frank Ross McCoy, 1874年 10月29日 - 1954年 6月4日 )は、アメリカ合衆国 の軍人。アメリカ陸軍 の将校として、米西戦争 や第一次世界大戦 期に従軍したほか、1923年の関東大震災 では救援作戦の指揮を執り、1932年にはリットン調査団 にアメリカ代表として参加した。1938年に陸軍を退役し、後に外交政策協会 (英語版 ) 会長や極東委員会 議長を務めた。
経歴
1874年、ペンシルベニア州ルイスタウンにて生を受ける。18世紀頃に渡米した北アイルランド系移民の家系であった。父トーマス・フランクリンは米墨戦争 および南北戦争 に従軍した復員兵で、また祖先を辿ると多くのアメリカ独立戦争 従軍者がいた。父の軍歴に憧れたフランクは両親の反対を受けつつも軍人を志し、1893年6月に陸軍士官学校 に進学した[ 1] 。
軍歴
訪日したリットン調査団(1932年)。右から2番目の米将校がマッコイ
1897年に陸軍士官学校 を卒業して騎兵少尉に任官する。最初の配属先は第8騎兵連隊 (英語版 ) だった[ 2] 。その後は第7騎兵連隊 にも務めた。
米西戦争 勃発後には第10騎兵連隊 (英語版 ) に配属され、1898年6月にキューバ戦線へと派遣された。7月1日、サン・ファン・ヒルの戦い (英語版 ) にて負傷。回復後は本土にて連隊に復帰する。終戦後の1899年4月、再び第10騎兵連隊はキューバへと派遣された。その後、キューバ軍政長官レオナルド・ウッド (英語版 ) 少将の副官に任命され、財政政策に関する業務を担当した。1902年、セオドア・ルーズベルト 大統領の顧問の1人に選ばれる。1903年8月から1906年2月、ミンダナオ軍管区長兼モロ州知事に就任したウッドのもとで副官を務める。この間、アメリカ軍が長らく追っていたモロ族の指導者ダツ・アリ(Datu Ali)を倒したマララグ川の戦い (英語版 ) (1905年)など、敵対的なモロ族勢力との戦闘を指揮した。1906年中頃に帰国した後、キューバ暫定知事を兼任していたウィリアム・タフト 陸軍長官の顧問を経て、12月からはルーズベルト大統領付の上級顧問に指名され、1908年まで務めた。この時期には第14騎兵連隊 (英語版 ) に所属を移していた。1907年10月から1908年11月まで陸軍戦争大学 (英語版 ) に出席。卒業後は第3騎兵連隊 (英語版 ) に勤務。1911年から戦争省 参謀本部(General Staff)に勤務。1914年6月から東部軍管区 (英語版 ) 司令官となっていたウッドの元で副官を務め、その後は第3騎兵連隊に戻ってアメリカ=メキシコ国境 の警備任務に従事した[ 1] 。
1917年にはメキシコシティ に派遣され軍事顧問を務めていたが、アメリカの第一次世界大戦 参戦を経て、マッコイもヨーロッパに派遣されるアメリカ外征軍 (AEF)に参加することとなった。AEFにおける彼の職は、ジェームズ・ハーボード (英語版 ) AEF参謀長付副官兼AEF司令部付参謀本部事務官だった。その後、第165歩兵連隊 (英語版 ) や第63歩兵旅団 (英語版 ) などを率いて各地の激戦に参加[ 1] 。
1917年には書籍『Principles of Military Training 』を執筆した[ 3] 。
1918年11月の休戦 後はAEF輸送責任者(Director of Transportation)などを務めた。1919年、ハーボード大将率いるアルメニア への軍事使節団にて参謀長に指名された(ハーボード委員会 (英語版 ) )。11月に帰国した後、本土各地で参謀将校として勤務した。1921年にはフィリピン諸島特別調査団の一員としてフィリピンに派遣され、フィリピン軍政長官となっていたウッド将軍の元で民生担当技術顧問に指名された。
1923年9月に日本で発生した関東大震災 に際し、アメリカ救済委員会の委員長として訪日[ 4] 。救援作戦の指揮を執った。1925年に帰国した後、本土にて第3歩兵旅団 (英語版 ) および第1野戦砲兵旅団の指揮を執る[ 1] 。
その後、カルビン・クーリッジ 大統領の命を受けた特別代表兼選挙監督としてニカラグア に派遣され、帰国後の1929年にはボリビア・パラグアイ査問委員会(Commission of Inquiry and Conciliation, Bolivia and Paraguay)にて議長を務めた。同年9月には少将に昇進し、第4軍団 (英語版 ) 管区司令官に就任。1932年2月、ハーバート・フーヴァー 大統領による指名を受けて満州事変 に関する調査を担当するリットン調査団 にアメリカ代表として参加。1933年に帰国した後には第1騎兵師団 長を務める。1933年10月から第7軍団管区司令官を務め、1935年2月には第6軍団管区司令官兼第2軍司令官に就任。1936年5月からは第2軍団管区司令官を務め、1938年1月からは第1軍 司令官を兼任[ 1] 。そしてジェームズ・K・パーソンズ (英語版 ) 将軍に司令官職を引き継いだ後、同年10月31日に陸軍を退役した[ 5] 。
退役後
1939年9月、ヘンリー・スティムソン 陸軍長官の推薦を受けて外交政策協会 (英語版 ) 会長に就任。1941年には真珠湾攻撃 に関する調査を担当したロバーツ委員会 (英語版 ) にて委員を務めた。1942年には東海岸に潜水艦で上陸したナチス・ドイツ 工作員らの処分に関する軍事委員会の議長を務めた。1943年には陸軍省調達審査委員会の議長を務めた[ 1] 。また、終戦後の1945年からは極東委員会 議長を務めた[ 2] [ 1] 。
1954年6月4日、ウォルター・リード陸軍医療センター (英語版 ) にて死去[ 6] [ 7] 。
受章
マッコイはアメリカ軍人として、陸軍殊勲章 (英語版 ) [ 8] 、2つのサイテーション・スター を受章している[ 8] 。
その後
マッコイハウス
1973年、彼の生家がマッコイハウス (英語版 ) として歴史登録財 に指定された[ 9] 。
彼の著作物はアメリカ議会図書館 に所蔵されている[ 10] 。
出典
^ a b c d e f g “Frank R. McCoy 1897 ”. West Point Association of Graduates. 2017年8月18日 閲覧。
^ a b Davis, Jr., Henry Blaine (1998). Generals in Khaki . Pentland Press, Inc.. p. 253. ISBN 1571970886 . OCLC 40298151
^ McCoy, Frank Ross. Principles of Military Training. [New York]: [P.F. Collier & Sons], 1917. OCLC 260320036
^ 一行五人の顔ぶれ『東京日日新聞』昭和7年2月29日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p721 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ Davis, Jr., Henry Blaine (1998). Generals in Khaki . Pentland Press, Inc.. p. 253. ISBN 1571970886 . OCLC 40298151
^ Davis, Jr., Henry Blaine (1998). Generals in Khaki . Pentland Press, Inc.. p. 253. ISBN 1571970886 . OCLC 40298151
^ フランク・ロス・マッコイ - Find a Grave (英語)
^ a b “Valor awards for Frank Ross McCoy ”. 2017年8月18日 閲覧。
^ National Park Service (9 July 2010). "National Register Information System" . National Register of Historic Places . National Park Service.
^ McCoy, Frank Ross. “Frank Ross McCoy papers, 1847-1957 ”. 2017年8月18日 閲覧。
“GEN. DRUM TO COMMAND SECOND CORPS AREA; Will Relieve General McCoy, Who Is Retiring, Here” , New York Times , (September 14, 1938), https://select.nytimes.com/mem/archive/pdf?res=F00E1EFE345C1B7A93C6A81782D85F4C8385F9
Diplomat in Khaki: Major General Frank Ross McCoy and American Foreign Policy, 1898–1949 , Andrew Bacevich , 1989, ISBN 0-7006-0401-4