デュークスは1975年から1981年までアメリカ海兵隊に所属し、この期間中に東南アジアでの極秘任務に派遣され、名誉勲章を授与されたと述べた[4]。デュークスは、Black Belt誌の1980年9月と10月号の記事を執筆し、近接格闘やそこでのナイフのテクニックについてのアドバイスをした。「東南アジアの実戦で磨かれたナイフ捌き」や「テコンドーやその他武術で黒帯を持っている」とも記した[6][7]。彼はまた、1987年にInside Kung Fu誌のナイフの戦いに関する記事を共同執筆した[8]。
1993年、デュークスはロサンゼルスで開催された第2回Draka Martial Arts Trade Showに参加し、キックボクサーのゼイン・フレイジャーと対決した[10]。デュークスは以前にフレイジャーを雇ってクラスを教えていたが、フレイジャーはデュークスが彼に報酬を支払っていないと主張している。結果はフレイジャーが勝利をもって証明したが、この戦いを目撃したホリオン・グレイシーとアート・デイビーは、その後フレイジャーにアルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(UFC)でのポジションを提供した[11][12][13]。デュークスは、フレイジャーがブラスナックルを装着して不意打ちをしたと述べている[12]。しかし他の格闘技の記述でこれについては言及していない。総合格闘技(MMA)のレフェリー、ジョン・マッカーシーを含む複数の情報源とも矛盾している[11][12][13]。
デュークスは1996年に、『The Secret Man: An American Warrior's Uncensored Story』という本を発表した。本によれば、CIA長官ウィリアム・J・ケーシーがトイレで彼に会えるよう手配し、極秘任務につくよう要求したという。任務にはニカラグアの燃料補給所やイラクの化学兵器工場での破壊工作が含まれる[14][15]。
1996年の映画『クエスト』では、デュークスは主演のジャン=クロード・ヴァン・ダムと共に「原案(Story)」としてクレジットされている。しかし映画の公開後に、デュークスは契約違反を理由にヴァン・ダムを訴えた。理由は、完成した映画が2人が以前に書いた「The New Dragon」とあまりにも似ていたからというものだった。1998年にデュークスの訴えは棄却された[16]。陪審員は「1994年のノースリッジ地震でヴァン・ダムと合意したテープが失われた」というものを含むデュークスの証言を、「信用できない」と判断した[17][18]。デュークスは判決に対して控訴したが、これも1999年に却下された[19]。
B・G・バーケットは、2000年にコルビー賞を受賞した彼の著書『Stolen Valor』の中で、「デュークスは軍での活躍や受賞の歴史を作り上げたが、実際にはベトナムでの働きはなく、入隊する前に戦争が終わった」と述べている[20][21]。デュークスは1980年にBlack Belt誌で、「ベトナム紛争中の著名な軍事記録」を記述していたが[9]、「東南アジアでの極秘任務においてのみで、ベトナムで仕事したと主張したことはない」と答えた[20]。Inside Kung Fu誌での1987年のデュークスとのインタビューは、彼を「ベトナムの退役軍人」として紹介している[22]。作家のラルフ・キーズとナイジェル・ウェストも、デュークスの軍歴に異議を唱えた[3][23]。Soldier of Fortune誌も同様である[1][24]。『ブラッド・スポーツ』で「原案(Story)」としてクレジットされているシェルドン・レティックは、「デュークスは当初、彼がもらったとするメダルを私に見せたが、数年後に人々が彼を疑うようになった後、メダルの話をしなくなり、私にそのような話はしていないと信じさせようとすらした。」と、2012年に語っている[25]。
ジョン・ジョンソンは、歴史書や他の武道の専門家からは、デュークスの師であるとされる「センゾー・"タイガー"・タナカ」の証拠を見つけることができないと報告した。デュークスはジョンソンに、タナカの居場所も生きているかもわからないと語ったが[4]、後年に話を変えて、死に瀕したタナカから「Kumite」への参加を望んでいると言われたと語った[28]。ジョンソンがデュークスに対し、師の名前がイアン・フレミングのジェームズ・ボンドの小説『007は二度死ぬ(You Only Live Twice)』の忍者指揮官[注 4]と同じ名前[注 5]だと指摘すると、デュークスはフレミングが「実在の人物から人物名を採ったのだ」と答えた[4]。2017年3月、デュークスは田中の死亡証明書を発見したという記事を書いた。これによると、1975年にロサンゼルスで死亡したという[29]。しかし2016年の時点では、デュークスのウェブサイトはタナカが日本で死亡したと述べている[30]。
戦歴について
1980年、デュークスはBlack Belt誌に、これまでの戦いの記録は321勝1敗7引きだったと語った[9]。2014年にはAXS TVに329勝し無敗で引退したと語った[31][注 6]。Inside Kung Fu誌の編集者であるカーティス・ウォンは、デュークスの56連続ノックアウトが可能かどうか疑っていた[4]。「この話を確認できるのはデュークス自身である」として、デュークスの「信じ難いほど凄い」記録を証明または反証することの難しさを論ずる者もいる[28]。
CIAでの仕事と著書『The Secret Man』について
何人かの著名な人物は、彼の著書『The Secret Man』でCIAのために働いたというデュークスの主張に反論した。CIAにおいてウィリアム・J・ケーシー長官の下で副長官、後に長官も務めたロバート・ゲーツは、「デュークスのことは聞いたことがなく、CIAで知っている人は誰もいなかった」と語った。デュークスは、他に働いていた人物としてノーマン・シュワルツコフ将軍とジョン・K・シングラウブ少将の名を挙げたが、どちらもデュークスの主張を否定した。シングラウブはこの本を「実質完全な創作」と呼んだ。シングラウブは自身の弁護士を通し、本を出版したReganBooksを所有するハーパーコリンズに、出版について考え直してほしいと伝えた[15]。Soldier of Fortune誌は、本の内容に少なくとも10の穴があると述べた。例えば「ケーシーがデュークスの仕事を個人的に処理し、CIAの誰も彼のことを知らないと保証した」としながら、多くの場合他の人員から文書や支援を受けとっており、矛盾していることなどである[1]。CIAの広報官は、この本は「全くの幻想」だとし、「CIAがこのようなことにコメントするのは珍しいが、あまりに馬鹿馬鹿しいので必要だと感じた」と語った。また、ケーシーが既に死去しているのもデュークスにとって好都合とも述べた[1]。Publishers Weeklyのレビューでは、「昔のペーパーバック本のような回顧録で、著者の幻想的な人生の真偽を判断するのは困難」と評した[14]。
多くの情報筋はデュークスの主張を完全に否定しているが、中には彼の物語に何らかの真実があるかもしれないと考える者もいる。デュークスは、
Soldier of Fortune誌の出版社のロバート・K・ブラウンを、自分に関する記事が発表された後に名誉毀損で訴えた[20]。聴聞会でジョン・ジョンソンは、デュークスが「Kumite」のトロフィーを購入した証拠として、領収書のコピーを提出した。しかし裁判官は領収書の日付けなどの矛盾を指摘し、証拠として許可しなかった[20]。最終的にデュークスの訴えは却下された[33]。UPROXXのダリエル・フィゲロアは、デュークスと彼の批判者双方の主張に穴があり、「虚偽の証拠、嘘、そしてそれらのどこかに真実がある」と述べている[20]。Rankerのヒュー・ランドマンは、「デュークスは、経歴の多くの面に嘘や誇張があるが、少なくとも彼の物語全てが間違いとも言い切れない。『ブラッド・スポーツ』で描かれたのとは違う「Kumite」で勝利したのかもしれない。」と述べている[28]。
^Dux, Frank; Richiusa, Gordon F. (July 1987). “The Guide to Ninjutsu Knife Fighting”. Inside Kung Fu Presents: The Complete Guide to Ninja Training: 76–79.
^Klein, Michelle (May 1987). “Frank Dux: The Man Behind the Legend”. Inside Kung Fu Presents: The Complete Guide to Ninja Training: 50. "Michelle Klein: Frank W. Dux, a distinguished Vietnam vet ... After training with Tanaka for several years Dux was called to serve in Vietnam and came out of the experience with a chestful of medals and a basic distrust of institutions like the military."