Juan Carlos Onetti (1981)
フアン・カルロス・オネッティ・ボルヘス (Juan Carlos Onetti Borges 、1909年 7月1日 - 1994年 5月30日 )はウルグアイ の小説家 。
生涯
1909年にウルグアイ のモンテビデオ に税関職員の子として生まれる。高校を中退して放浪をはじめ、転職を繰り返した。21歳で自らの従姉妹と結婚し、アルゼンチン の首都ブエノスアイレス に渡る。長男ホルヘを授かるがほどなくしてオネッティ夫婦は離婚。このころから創作活動を開始し、いくつかの習作をブエノスアイレスの新聞に発表する。25歳になったのを機にモンテビデオに戻り、別の従姉妹と結婚する。1939年より、創刊されたばかりの週刊紙『マルチャ』(Marcha )にて、筆名を使ってコラムを発表するようになる。
1939年に中編小説『井戸』を発表するが、ごく親しい知人や一部の作家たち賞賛を得ただけで、発行された500部のほとんどが売れ残った。1941年にロイター通信モンテビデオ支局に職を得、1943年からはブエノスアイレス 支局に勤める。1945年にみたび結婚し、一女にめぐまれる。
1950年に発表した長編『はかない人生』(La vida breve )もやはり売れ行きは芳しくなかったが、一人の男が人生の悲惨から逃れるために空想した架空の街サンタ・マリアの登場するこのメタフィクション的小説は、のちにラテンアメリカ文学「ブーム」の先駆的作品として高く評価されることになる。ウィリアム・フォークナー のヨクナパトーファに直接の影響を受けたこのサンタ・マリアは、のちの作品においても重要な役割を果たす。
1955年にウルグアイに帰国し、終生のパートナーとなるドロテア“ドリー”・ムルと結婚。サンタ・マリアを舞台に、『造船所』(1961)や『屍集めのフンタ』(1964)といった小説を発表する。『造船所』は国民文学賞を獲得し、『屍集めのフンタ』はマリオ・バルガス=ジョサ 『緑の家』とロムロ・ガジェゴス賞を争うなど、徐々に国際的な評価を高めていった。
1974年、オネッティが選考委員となっていた『マルチャ』の文学賞に、ネルソン・マラ(Nelson Marra)の『ボディーガード』(El guardaespaldas )を選んだことを理由に、軍事政権に投獄、拷問されるという憂き目にあう。ガブリエル・ガルシア=マルケス やマリオ・バルガス=ジョサ を初めとする多くの作家仲間の働きかけによって釈放されると、スペインに飛び、そのまま亡命した。亡命後もアルコール中毒 と格闘しながら執筆をつづけ、1979年に大作『風に語らせろ』を発表し、批評家賞を受賞。1980年にはセルバンテス賞 を受賞した。
1985年になってウルグアイに文民政権が返り咲くと時の大統領フリオ・マリア・サンギネッティ が新政府の発足記念式典にオネッティを招待するが、彼はこれに感謝しつつもスペインに留まることを選んだ。
1994年、亡命先のスペインのマドリード で死亡。最後の5年間は、実質的に寝たきり状態であった。
日本語訳
主な作品
『井戸』El pozo (1939)
『はかない人生』La vida breve (1950)
『別れ』Los adioses (1954)
『ヤーコプともう一人』Jacob y el otro (1960)
『造船所』El astillero (1961)
『屍集めのフンタ』Juntacadáveres (1964)
『死と少女』La muerte y la niña (1973)
『風に語らせろ』Dejemos hablar al viento (1979)
外部リンク