テスココ (テツココとも。Texcoco)は、メキシコ ・メヒコ州 にある市。メキシコシティ の28km北東に位置している。人口は10万5165人(2010年)。
テスココ湖 の東岸に位置し、テノチティトラン 、トラコパン (現在の名称はタクバ、Tacuba )とともにいわゆるアステカ王国 (三都市同盟 、エシュカン・トラトロヤン )を構成する中心都市の一つであった。中央メキシコ高原 地域において、アステカ帝国の都テノチティトランに次ぐ大きさであった。
16世紀のナワトル語 ではテツココ(Tetzcoco)と呼ばれていたが[ 1] 、その意味は明らかでない。アステカ文字 ではしばしば石(tetl )と壺(comitl )で表しているが、これは語源ではなく、テツココの音を語呂合わせによって示したものと考えられる[ 2] 。
テスココはテスココ湖の東に住むアコルワ の中心都市であり、西のアスカポツァルコ を中心都市とするテパネカ と並んでメキシコ盆地 の主要な勢力であった。アスカポツァルコのテソソモク はテスココと戦って勝ち、1418年にテスココのトラトアニ であったイシュトリルショチトルが殺された[ 3] 。イシュトリルショチトルの子のネサワルコヨトル は、テソソモクの死後に起きた継承争いに乗じて、テノチティトラン のイツコアトル 、およびトラコパンと同盟を組んでアスカポツァルコを攻め滅ぼした。これによってテパネカにかわってアステカがメキシコ盆地の主要な勢力になった[ 4] 。
メソアメリカ の都市調査で、スペイン征服前のテスココの人口は2万4000人に達していて、450ヘクタールの土地を支配していた。16世紀前半にペドロ・デ・ガンテ(Pedro de Gante)により、アメリカ大陸最初の欧州系の学校がここに建てられた。
脚注
^ Benton (2017) p.3
^ Benton (2017) pp.5-7
^ Townsend (2000) p.72
^ Townsend (2017) pp.73-74
参考文献
Benton, Bradley (2017). The Lords of Tetzcoco: The Transformation of Indigenous Rule in Postconquest Central America . Cambridge University Press. ISBN 9781107190580
Townsend, Richard F. (2000) [1992]. The Aztecs (Revised ed.). Thames & Hudson. ISBN 0500281327