ダグラス・アダムズ(Douglas Adams、1952年3月11日 ‐2001年5月11日)は、イギリスの脚本家、SF作家。ファンの間ではBop Ad や Bob、もしくはDNA(フルネーム "Douglas Noël Adams"より)と呼ばれている。存命中に全世界で1500万部売れた『銀河ヒッチハイク・ガイド』の作者として知られる。同作品は1978年にBBCのラジオドラマとして始まったもので、続編も書かれ、テレビドラマ、演劇、コミックス、コンピュータゲーム、映画(2005)などになっている。イギリスのラジオ文化への貢献により、The Radio Academy の殿堂入りを果たしている。
アダムズはブレントウッドの Primrose Hill Primary School に通っていた。6歳のとき全寮制学校 Brentwood School の入学試験に合格。同校の卒業生にはジャック・ストローやデイヴィッド・アーヴィングといった有名人がいる。同級生にはスタッキズムのアーティスト チャールズ・トムソン(英語版)、1学年下にはグリフ・リース・ジョーンズがいた。1959年から1964年まで準備学校に通い、その後全寮制学校には1970年12月まで在籍した。学級担任のフランク・ハルフォルドはアダムズについて「数百人の少年が学校を卒業していったが、ダグラス・アダムズは文字通り群衆の中で目立っていた。彼は異様に背が高く、やや自意識過剰に見えた。それでも彼を本当に輝かせたのは、最高の物語を紡ぐ彼の能力だった」と語っている[5]。アダムズは12歳で1.83mの身長があり、最終的には1.96mまで成長した。「時計塔の下」や「戦没者記念碑の下」の代わりに「アダムズの下で会おう」というジョークがあったという[6]。彼は担任のハルフォルドが作文で10点満点の10点をつけた唯一の生徒だった。アダムズはスランプに陥るとそのことを思い出したという[7]。
この学校時代に書いたものも一部は出版されている。例えば、写真クラブの会誌 The Brentwoodian 1962年版、学校誌 Broadsheet に掲載されたふざけたレビューなどである。後者の編集長パウル・ネイル・ミルネ・ジョホンストネは後の「銀河ヒッチハイク・ガイド」の登場人物になっている。アダムズは Broadsheet の表紙をデザインしたこともある。また1965年には少年コミック誌 The Eagle に送った手紙と短編小説が掲載されたことがある。ビートルズとウィリアム・ブレイクを論じた宗教詩についての溌剌とした論文でケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに進学し、英文学を専攻したが、彼がそこを選んだ最大の理由は有名なコメディアンを輩出していたコメディクラブ フットライツに参加するためだった。しかし、クラブにすぐに入れたわけではなく、まずウィル・アダムズとマルチン・スミスとで「アダムズスミスアダムズ」というグループを結成して、脚本を書いて演じることから始め、根気強く活動したおかげで1973年にフットライツに入会できた[8]。勉強はほとんどしなかったが、3年間で論文を3本書き、1974年に英文学の学士号を取得して卒業した[9]。
経歴
執筆
1974年、アダムズの初期の作品がフットライツのレビュー(寸劇)の編集版としてBBC2で放送された。そのレビューのある版をロンドンのウエスト・エンドで上演し、モンティ・パイソンのグレアム・チャップマンがアダムズを見出すことになった。2人は共同執筆を行うようになり、『空飛ぶモンティ・パイソン』のあるエピソード(エピソード45、最終話)にアダムズの名も表示された。その中の "Patient Abuse" (世界で一番アブナイ医者)というスケッチがアダムズの関わったものである。なお、オリジナルのメンバー以外の名が表示されたのはアダムズ以外にはニール・イネスしかいない。そのスケッチは、看護婦に腹を刺された男が血を流しながら診察室に入ってくるところから始まる。医師は彼に治療の前に多くの非常識なフォームに記入するよう要求する(後のヴォゴン人の事務手続きに通じるものがある)。アダムズは『空飛ぶモンティ・パイソン』第4シリーズに2度出演している。アダムスとチャップマンはモンティ・パイソンとは関係ないプロジェクトでも共同執筆しており、Out of the Trees などがある。
『銀河ヒッチハイク・ガイド』はアダムズとラジオ・プロデューサー のサイモン・ブレット[11]が1977年、BBC Radio 4 に売り込んだSFラジオドラマのコンセプトだった。アダムズはパイロット版といくつかのストーリーの概略を考え出した(ニール・ゲイマンの著書 Don't Panic: The Official Hitchhiker's Guide to the Galaxy Companion に収録)。
アダムズ自身によると、そのアイデアはオーストリアのインスブルックの広場で酔っ払って横になり星を眺めているときに思いついたという。ただし、綴りが易しいという理由でBBCはスペインだったと主張するだろうと冗談を添えている[12]。そのとき彼は Hitch-hiker's Guide to Europe という本を片手に各地を放浪していて、全く話が通じない町にたどりついた。あたりをうろついてしばらく飲んだ後、彼は広場の中央で眠り、その町の人々とコミュニケーションができないことからインスピレーションを得た。なお、何度もこの話をしたため、そのときの記憶はもうすっかり忘れてしまって、彼の中で改変された記憶だけが残っているとも語っている。
BBC Radio 4 は最初のラジオドラマを1978年の3月と4月に毎週1話ずつ放送した。評判が良かったため、追加のエピソードが制作され放送された。これが一般にクリスマス・エピソードと言われている。第2シリーズ5話は1980年1月21日から25日に一夜に1話の形で放送された。
このラジオシリーズに関わりながら(そして The Pirate Planet などにも関わりながら)、アダムズには締め切りを守れないという悪い癖がでてきた。アダムズは決して多作な作家ではなく、誰かに強制されないと書けない方だった。後に『さようなら、いままで魚をありがとう』を完成させる際には、3週間ホテルに缶詰にされている[14]。彼は「私は締め切りを愛している。締め切りが通り過ぎるときのヒューという飛ぶような音が好きだ」と述べている[15]。締め切りに追われながら、結局アダムズは5つの小説を書き、それぞれ1979年、1980年、1982年、1984年、1992年に出版された。
1980年、アダムズは『銀河ヒッチハイク・ガイド』映画化の最初の試みを開始し、ロサンゼルスに何度か行き、ハリウッドのいくつかのスタジオを訪問し、プロデューサー候補に会った。翌1981年、ラジオドラマをベースとしてBBCがテレビドラマのミニシリーズ "The Hitch Hikers Guide to the Galaxy" 全6話を放送。2001年にカリフォルニアで亡くなったときも、彼は1998年に映画化権を購入したディズニーと映画化の話を進めていた。2005年の映画はアダムズの死後に Karey Kirkpatrick が書き換えた脚本に基づいて2003年9月に制作が開始されたものである。
ラジオ・プロデューサー Dirk Maggs はヒッチハイク・シリーズの3作目の小説をベースとしてラジオドラマの第3シリーズを制作する件を1993年、1997年、2000年の3回、アダムズと相談している[16]。かれらはまた、「三部作」を構成する5作品の最後の2作をラジオドラマ化する可能性についても漠然と議論した。映画と同様、このプロジェクトもアダムズの死後に実現した。ラジオドラマの第3シリーズは BBC Radio 4 で2004年9月に放送され、後にCD化された。『宇宙クリケット大戦争』をアダムズ自身が朗読した録音が残っていたため、アグラジャグの声はアダムズ自身のものが使われている。『さようなら、いままで魚をありがとう』と『ほとんど無害』からラジオドラマの第4および第5シリーズが制作され、2005年5月と6月に放送され、後にCD化された。最終シリーズの最終話の最後は「ダグラス・アダムズの『銀河ヒッチハイク・ガイド』の最終回は、愛情を込めて作者に捧げられる」という言葉で終わっている[17]。
1978年、アダムズは『銀河ヒッチハイク・ガイド』ラジオ版のパイロット脚本を『ドクター・フー』制作班に送り、The Pirate Planet の脚本を依頼された。またもっと以前に "Doctor Who and the Krikkitmen" という映画用脚本を送ろうとしたこともあり、それが後の『宇宙クリケット大戦争』のベースになっている。アダムズは1979年のシーズン17で脚本編集として関わった。そして全部で3つの話の脚本を書いている。
The Pirate Planet シーズン16(1978-1979年)の第2話(4エピソード)
City of Death シーズン17の第2話(4エピソード) - Graham Wiliams、David Fisher と共作
アダムズは『ドクター・フー』の自分が書いたエピソードや脚本編集として関わったエピソードで内輪受けのネタとして『銀河ヒッチハイク・ガイド』に言及することを許していた。また『ドクター・フー』のその後のシリーズでもヒッチハイク・ガイドへの言及があり、最近では2007年に 42 というサブタイトルの話があった。逆にヒッチハイク・ガイドの小説に『ドクター・フー』への言及が少なくとも1カ所ある。『宇宙クリケット大戦争』で主人公2人がローズ・クリケット・グラウンドのピッチ上に突然現れる。そのときのラジオのコメンテーターの反応が『ドクター・フー』の1965-66年の第8話 The Daleks' Master Plan でドクターのターディスが同じクリケット競技場に突然現れたときのコメンテーターの反応と酷似している。
Shada と City of Death の要素はアダムズの小説 Dirk Gently's Holistic Detective Agency にも再利用されており、Dirk Gently はドクターと同じプロット上の役割を担っている(性格は全く異なる)。Big Finish Productions は後に Shada をオーディオドラマとしてリメイクした。これに一部アニメーション化したイラストを付けたものが、2003年にBBCのウェブサイトでインターネット放送され、その後CD2枚組として発売された。2005年12月10日には BBC7 がデジタルラジオで放送している。
アダムズは学生時代に Doctor Which と題した脚本を書いて舞台を上演したことがある[21]。
音楽
アダムズは左利きながらギターを弾き、生涯に24本の左利き用ギターを収集した(最初のギターは1964年に入手)。1960年代に Paul Wickens からピアノとギターを習った。Wickens はポール・マッカートニーのバンドでピアノを演奏していた(また、2004-2005年版のラジオ版『銀河ヒッチハイク・ガイド』では音楽を担当している)[22]。ビートルズ、ピンク・フロイド、プロコル・ハルムの3者はアダムズが大きな影響を受けたアーティストである。
アダムズの公式の伝記の題名はピンク・フロイドの曲 "Wish You Were Here" にちなんでいる。アダムズはピンク・フロイドのギタリスト デヴィッド・ギルモアとは友人で、アダムズの42歳(42という数字はアダムズにとっては特別であり、生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えであるとともに、その年に娘が生まれている)の誕生日にピンク・フロイドのコンサートにゲスト出演者として招待され、ギターを弾いて演奏に参加した。ピンク・フロイドの1994年のアルバム The Division Bell のタイトルはアダムズが収録曲の歌詞から選んだ。ライナーノートにもアダムズの名がある。また、ギルモアはアダムズの追悼式で演奏している。
『宇宙の果てのレストラン』に登場するロックバンド「デザスター・エリア」はピンク・フロイドがモデルであり、「銀河一大きな音を立てるロックバンドというだけでなく、あらゆる騒音の中でも一番うるさい」バンドとして描かれている。デザスター・エリアはステージ演出として宇宙船を太陽に突っ込ませるのだが、これもピンク・フロイドのステージの派手な演出が発想の元になっていると見られる。また、ピンク・フロイドには "Set the Controls for the Heart of the Sun"(1968) という曲がある。
アダムズはブルッカーのステージに登場し "In Held Twas in I" の演奏に参加したことがある。
アダムズは執筆中に音楽をかけていたが、ときおりその音楽に執筆内容が影響されることがあった。プロコル・ハルムのアルバム Grand Hotel の表題曲がかかっていたとき、
曲の途中で突然大音響のオーケストラになり、一体何が起きたのかと思った。私は、その背後に何があるのか考え続けた。そして何かフロアショーのようなものが進行しているように思えた。何か巨大で並外れた、そう、例えば宇宙の終りのようなもの。こうして『宇宙の果てのレストラン』のアイデアが生まれた。 — ダグラス・アダムズ、Procol Harum at The Barbican[23]
その他の音楽との関わり
アダムズは影響を受けた音楽やミュージシャンについて、よく本の中で触れている。ヒッチハイク・ガイド・シリーズでは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』ではネズミのベンジイとフランキイが『究極の答え』に適した質問として「人間が歩く道の数はいくつ?」(How many roads must a man walk down?) を思いつく。これは、ボブ・ディランの曲「風に吹かれて」の一節である。また同作で「黄金の心」号のコンピュータ(エディ)は2つの核ミサイルから逃れられず危機に陥ったとき、「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」を歌いだす。このロジャース&ハマースタインの曲は『回転木馬』というミュージカルの曲で、イギリスで1960年代にヒットした。その後サッカーファンが歌う定番の曲になり、ピンク・フロイドもアルバム「おせっかい」に収録された「フィアレス」の途中に挿入している。「黄金の心 (Heart of Gold)」という宇宙船の名称自体もニール・ヤングの曲名 (en) に由来している。
2作目の『宇宙の果てのレストラン』は、ポール・サイモンの1980年のアルバム One-Trick Pony に捧げられている。アダムズはそのアルバムを執筆中に常にかけていたとしている。4作目『さようなら、いままで魚をありがとう』では、アーサー・デントがダイアー・ストレイツのLPを聴いているが、アダムズはそのギタリスト マーク・ノップラーに敬意を表している。作中では曲名は明記されていないが、アダムズは後にアルバム Making Movies に収録された "Tunnel of Love" だと明かしている。『ほとんど無害』では、フォード・プリーフェクトとアーサー・デントが入ったバーでエルヴィス・プレスリーらしき男が歌っているのを発見する。
1994年には、イギリスの慈善団体 Save the Rhino のために、サイの着ぐるみを着てキリマンジャロ登山するというイベントに参加した。この登山には様々な人々が参加し、サイの着ぐるみを交代で着た。アダムズが着たのは登山が始まる前のキリマンジャロの麓まで行く道中のことだった。このイベントで10万ポンドの募金が集まり、ケニアの学校とタンザニアでのクロサイ保護活動に寄付された。アダムズは Dian Fossey Gorilla Fund の熱心なサポーターでもあった。2003年以降、Save the Rhino はアダムズの誕生日のころに毎年 Douglas Adams Memorial Lecture を開催し、収益を環境保護活動に使っている[28]。これまでの講演者は次の通り。
2003年 リチャード・ドーキンス – Queerer than we can suppose: the strangeness of science
アダムズは1984年の登場当初から死去する2001年まで Macintosh ユーザーだった。各作品には、執筆に用いた機種やソフトを明記していた。イギリスで最初にMacを購入したのはアダムズだと言われている(文献によってはスティーヴン・フライが最初とされている)。アダムズはアップル社が認めた "Apple Master" の1人だった(他にはジョン・クリーズやグレゴリー・ハインズがいる)。アダムズは、娘を撮影したビデオを初期のiMovieで編集してロック音楽のミュージックビデオを製作している。このビデオは今もアダムズのMobileMeのホームページに掲載されている。douglasadams.comのフォーラムには、4月26日にMac OS Xについて「インストールを夏まで待つつもりだったが負けてしまい、先週やってしまった。」「慣れるまでしばらくかかるし欠点はある」「しかし」「すばらしい。完全にほれ込んでしまった(I think it's brilliant. I've fallen completely in love with it.)」と述べたのがアダムズの最後の投稿となっている[32]。
アダムズは電子メールをかなり初期のころから使い始め、Infocom によるコンピュータゲーム版『銀河ヒッチハイク・ガイド』の製作で Steve Meretzky とのやりとりに使っていた。1993年、ニューメキシコに住んでいたころ新たな電子メールアドレスを取得し、USENETのニュースグループ alt.fan.douglas-adams に投稿しはじめ、時には comp.sys.mac にも投稿した[33]。彼の投稿の多くはGoogleによって保存されている。本人かどうかを疑われることが多かったため、自身のウェブサイトにメッセージフォーラムを作ることになった。2001年4月。アダムズはサンフランシスコで開催された組み込みシステムに関する主要な技術会議の1つ Embedded Systems Conference の基調講演を行った。彼はその講演で、テクノロジーが日々の生活でどのように役立つべきかというビジョンを説明した[34]。
私生活
1980年、アダムズは当時夫と別居中だった小説家サリー・エマーソンと恋に落ちた。後に『宇宙クリケット大戦争』をエマーソンに捧げている。エマーソンは1981年には夫の下に戻ったが、その夫 Peter Stothard はアダムズの Brentwood School 時代の同級生であり、後にタイムズ誌編集者となった。間もなく友人の紹介でジェーン・ベルソンと出会い、恋愛関係になった。1980年代中ごろの彼の著書の著者紹介欄で「彼はイズリントンに女性弁護士とMacintoshと共に住んでいる」と書かれていたが、この「女性弁護士」がベルソンである。1983年、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の映画化の話があったため、彼らはロサンゼルスで同居し、アダムズは脚本を書いていた。しかし映画化の話がなくなり、2人はロンドンに移住。その後別居したこともあったが、1991年11月25日に結婚。1994年6月に娘が生まれた。1999年、ロンドンからカリフォルニア州サンタバーバラに引越し、アダムズが亡くなるまでそこで過ごした。その後、妻と娘はロンドンに戻っている[35]。
当時、BBCのラジオ『The Hitchhiker's Guide to the Future』の最終エピソード放映の一週間後であり、映画版「銀河ヒッチハイク・ガイド」の脚本を執筆中であった(『The Hitchhiker's Guide to the Future』はアダムズが音楽や放送、出版などの将来について語った4回のドキュメント番組で、フィクションではない)。生前最後に人前に登場したのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で行われた Parrots, the universe and everything(オウム、宇宙と全て)と題した講演で、生前に録画された最後の映像となっている[38]。この講演を文章に起こしたものもある[39]。
2002年5月、少年時代の投稿やエッセイ、短編小説、未刊となった作品 "The Salmon of Doubt" の一部、リチャード・ドーキンスやスティーヴン・フライの追悼文(イギリス版)、Christopher Cerfの追悼文(アメリカ版)、テリー・ジョーンズの追悼文(アメリカでのペーパーバック版)を収録した作品集 The Salmon of Doubt が出版された。出版前に偽のレビューがいくつか米Amazon.comに掲載されるなどして、話題となった。"The Salmon of Doubt" は未完の長編小説で、元々は 《Dirk Gently》シリーズの1作となる予定だったが、《銀河ヒッチハイク・ガイド》シリーズの6作目のようになっていた[42][43]。
死後、2003年にニック・ウェブにより公式の伝記『Wish You Were Here』が出版された。M. J.シンプソンによる伝記『Hitchhiker : A Biography of Douglas Adams』も出版されたが、両者の打ち合わせによりウェブはアダムズの人生について、シンプソンは作品について焦点を絞っている。ニール・ゲイマンによる『Don't Panic: Douglas Adams & the Hitchhiker's Guide to the Galaxy』は、1988年に「銀河ヒッチハイクガイド」の公式ガイドとして『Don't Panic: The Official Hitchhikers Guide to the Galaxy Companion』のタイトルで出版され、1993年にデヴィッド・K・ディクソンにより加筆されて現在の名称で出版され、2003年には上記伝記の作者であるM. J.シンプソンにより改訂、出版された。
映像では『Life, The Universe and Douglas Adams』というドキュメンタリービデオが2002年にリリースされている。
BBCからは2004年に、アダムズのかかわった作品を集めた『Douglas Adams at the BBC』がCD3枚組で出された。
作品リスト
小説
《銀河ヒッチハイク・ガイド》シリーズ
銀河ヒッチハイク・ガイドThe HitchHiker's Guide to the Galaxy (1979)
宇宙の果てのレストラン The Restaurant At the End of the Universe (1980)
宇宙クリケット大戦争 Life,The Universe and Everything (1982)
さようなら、いままで魚をありがとう So Long, and Thanks for all the Fish (1984)
ほとんど無害 Mostly Harmless (1992)
若きゼイフォードの安全第一 "Young Zaphod Plays It Safe" (1986) - 短編。河出文庫版『宇宙クリケット大戦争』所収
The Utterly Utterly Merry Comic Relief Christmas Book (1988) - アダムズとPeter Finchamの編集によるチャリティブック。短編 "Young Zaphod Plays it Safe"、"The Private Life of Genghis Khan"(1975)、"A Christmas Fairly Story"(1986, テリー・ジョーンズとの共作)などを収録
The Deeper Meaning of Liff (1990) - 表現する言葉がないが、そういう言葉があるべきだという事物についての辞書。John Lloydとの共著
The Salmon of Doubt: Hitchhiking the Galaxy One Last Time (2002) - 未完の小説の草稿、短編小説、エッセイ、インタビューなどを収録
^Adams, Douglas (2003). Geoffrey Perkins (ed.), Additional Material by M. J. Simpson. ed. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy: The Original Radio Scripts (25th Anniversary Edition ed.). Pan Books. p. 10. ISBN0-330-41957-9 - bbc.co.uk のヒッチハイク・ガイドに関するあるページには、「BBCはアダムズがこれを思いついたのはスペインだったとしていたが、今ではインスブルックの綴りを我々も知っている」とある。
^Adams, Douglas. (2005). Dirk Maggs, dramatisations and editor. ed. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy Radio Scripts: The Tertiary, Quandary and Quintessential Phases. Pan Books. xiv. ISBN0-330-43510-8
^Gaiman, Neil (2003). Don't Panic: Douglas Adams & The Hitchhiker's Guide to the Galaxy (Second U.S. edition ed.). Titan Books. p. 169. ISBN1-84023-742-2
^Cavalieri, Paola and Peter Singer, editors (1994). The Great Ape Project: Equality Beyond Humanity (U.S. Paperback ed.). St. Martin's Griffin. pp. 19–23. ISBN0-312-11818-X