初代ミドルトン伯爵ウィリアム・セントジョン・フレマントル・ブロドリック(英語: William St John Fremantle Brodrick, 1st Earl of Midleton, KP, PC, DL、1856年12月14日 - 1942年2月13日)は、イギリスの政治家、貴族。
19世紀末から20世紀初期にかけての保守党政権下で閣僚職を歴任した。
1907年にアイルランド貴族第9代ミドルトン子爵位を継承し、1920年には連合王国貴族ミドルトン伯爵位を与えられた。
経歴
1856年12月14日にアイルランド貴族の第8代ミドルトン子爵ウィリアム・ブロドリック(英語版)とその妻オーガスタ (初代コッテスロー男爵(英語版)トマス・フレマントル(英語版)の娘)の間の長男として生まれる[2][3]。
イートン校を経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジへ進学[2]。
1880年から1885年まで西サリー選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務めた。ついで1895年から1906年まではギルドフォード選挙区(英語版)から選出された[1]。
1886年から1892年にかけての第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの第2次内閣で陸軍省財務長官(英語版)を務めた。ついで第3次ソールズベリー侯爵内閣(英語版)では1895年から1898年にかけて陸軍省政務次官(英語版)、1898年から1900年にかけて外務省政務次官(英語版)を務めた[2][3]。
1900年11月に陸軍大臣に就任し、アーサー・バルフォア内閣期の1903年10月まで務めた[2][3]。1903年10月からインド大臣に転任し、バルフォア内閣が下野する1905年12月まで務めた[2][3]。
1907年4月に父が死去し、ミドルトン子爵位以下父の保有爵位3つを継承。うち1つがグレートブリテン貴族爵位であるため、襲爵と同時に貴族院議員に列した[1]。
1920年2月には連合王国貴族爵位ミドルトン伯爵位を新規に叙された[2][3]。1930年から1942年にかけてはキングストン=オン=テムズの大侍従(High Steward of Kingston-on-Thames)を務めた[2]。
1942年2月13日に死去した[2][3]。
栄典
爵位
1907年4月18日に父ウィリアム・ブロドリク(英語版)の死去により以下の爵位を継承した[2][4]
- コーク県におけるミドルトンの第9代ミドルトン子爵 (9th Viscount Midleton, of Midleton in the County of Cork)
- (1717年8月15日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
- コーク県におけるミドルトンの第9代ブロドリック男爵 (9th Baron Brodrick, of Midleton in the County of Cork)
- (1715年4月13日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
- サリー州におけるペパー・ハローの第6代ブロドリック男爵 (6th Baron Brodrick, of Peper Harow in the County of Surrey)
- (1796年6月11日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
1920年2月2日に以下の爵位を新規に叙された[2][3]。
- 初代ミドルトン伯爵 (1st Earl of Midleton)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
- サリー州におけるダウンズフォードの初代ダウンズフォード子爵 (1st Viscount Dunsford, of Dunsford in the County of Surrey)
- (勅許状による連合王国貴族爵位)
勲章
家族
1880年に第10代ウィームズ伯爵フランシス・チャータリス(英語版)の娘ヒルダと最初の結婚をし、彼女との間に以下の1男4女を儲けた[2][3]。
1903年にジョン・スタンリー大佐の娘マデリーンと結婚。彼女との間に以下の2子を儲けた[2][3]
- 第6子(次男)フランシス・アラン・ブロドリック (1910-1943) ステュワート=マッケンジーに改姓。第二次世界大戦で戦死
- 第7子(三男)マイケル・ヴィクター・ブロドリック (1920-1943) 第二次世界大戦で戦死
脚注
出典
外部リンク