セウェルス朝(セウェルスちょう、193年 - 235年)は、ローマ帝国における王朝の一つで、セプティミウス・セウェルス、カラカラ、ゲタ、ヘリオガバルス、アレクサンデル・セウェルスら5名の皇帝による治世を指す。途中でマクリヌスによる帝位簒奪を経ており、これを含む場合もある。
概要
背景
帝政中期、異国の侵入はマルコマンニ戦争での勝利を境にしてやや小康状態に入っていたが、常備軍の肥大化と政治力の拡大は深刻な内憂外患となりつつあった。そんな最中でネルウァ=アントニヌス朝の6代君主コンモドゥス帝が狂気に陥り、暴政の末に暗殺される事件が発生した。 コンモドゥスを除いて同王朝に男系子孫(女性はあり)はなかった為に断絶が決定的なものとなり、各地で「第四の王朝」を望む諸侯が抗争を繰り広げた。最終的にペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌス、そしてセプティミウス・セウェルスの三名の将軍で争った。
セウェルスは政敵を打ち倒した後、軍の支持を取り付けることで元老院や民衆を押さえ込んで新たな王朝を承認させた。その点では軍・元老院・民衆の三権を基本的には尊重したそれ以前の王朝に対し、セウェルス朝は最初から軍事独裁としての性質が強かった。これは後の軍人皇帝時代に頻発する「軍による帝位簒奪」を予兆させる出来事とも捉えられる。
一時的な断絶と復興
セウェルスの後を継いだカラカラは共同皇帝であった弟ゲタを殺害する暴挙に及び、更に様々な暴政を繰り広げてセウェルス朝に対する不満が高まった。それでも軍を支持基盤とする方法を遵守していたカラカラの帝位は磐石であったが、暗殺により倒れるとセウェルス朝に男系男子が居なかったことから一度セウェルス朝は断絶している。
その政治的空白で台頭したのがカラカラの側近マクリヌスであり、帝位を元老院に承認させた上で自らの子息を共同皇帝にするなど早くも新しい王朝成立を画策していた。これに対してセウェルスの妻ユリア・ドムナの生家でセウェルス朝の外戚として権威を得ていたバッシアヌス家が、ドムナの姪(姉マエサの娘)が産んだ息子ヘリオガバルス(カラカラにとっては伯母の孫(従甥))を頭目に反乱軍を組織した。
女系・傍系の血筋だけでは不十分と考えたマエサは、ヘリオガバルスがカラカラの落胤であるとも主張して軍や貴族の支持を纏め上げた。マクリヌスはヘリオガバルス派の軍勢に敗北を喫した後、息子と共に処刑された。これでマクリヌスの王朝は確立される前に終焉し、大いに正当性に疑いがあるものの再びセウェルス朝が復興された。
肖像
歴代君主
セプティミウス・セウェルス
ルキウス・セプティミウス・セウェルスはローマ帝国領アフリカ出身の元老院議員で、ポエニ戦争での戦功で領土を得たエクィテスを祖先とする。
セウェルスは軍人として頭角を現し、マルクス・アウレリウス帝とコンモドゥス帝の二代に仕えた将軍となった。コンモドゥス帝の死後、権力掌握に中央政権の要人が相次いで失敗する様に各地で軍司令官の蜂起が始まり、パンノニア総督であったセウェルスはその一人として帝位請求を行った。同じ請求者であったシリア属州総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタンニア総督クロディウス・アルビヌスを破ったセウェルスは軍の支持の元に元老院を押さえ込み、専制的な統治体制を整えた。
軍の支持を背景にしたセウェルスはパルティアなどとの対外戦争で多くの勝利を重ね、ローマの防衛力再建に業績を上げた。一方で軍事独裁の側面が強い統治は元老院と市民の権威を無視する傾向を作り、後の軍人皇帝時代の前兆となった。軍の歓心を買う為に給与の増額や軍備拡大も推し進め、コンモドゥス帝時代に一度は引き下げられた軍事費は再び高騰して帝国財政に重い負担を残した。
私生活では最初の妻と子供に恵まれなかったセウェルスは24歳年下でシリアの神官の娘であったユリア・ドムナと再婚して漸く子供を授かったが、次第に妻の実家であるバッシアヌス家による専横を許す事になる。またその子供であるカラカラはローマの暴君の一人として名を残してしまい、これもセウェルスの名声を落とす要因となった。ブリタンニア遠征中にエボラクム(現ヨーク)にて病に倒れ、帝位はカラカラと弟ゲタに引き継がれた。
カラカラとゲタ
前皇帝セウェルスが42歳にして授かったカラカラことルキウス・セプティミウス・バッシアヌスは、弟プブリウス・セプティミウス・ゲタと共に父の後継者として養育された。父が病没すると両者は正式に皇帝に即位し、ローマでは三例目となる直系世襲[1]を果たした。
継承前にバッシアヌスは前王朝のアントニヌス朝との繋がりを強調するため名をマルクス・アウレリウス・アントニヌスと改めた。また、それに伴いコンモドゥス帝の名誉回復も図られコンモドゥス帝へのダムナティオ・メモリアエは撤回された。
しかしこの兄弟は非常に仲が悪く、兄弟というより忌むべき宿敵としてお互いを憎みあった。皇帝に即位した後も激しい権力闘争を繰り広げ、一時は帝国を二分するという仲裁案が出されたほどであったという。両者の諍いは兄カラカラが弟ゲタを母ドムナの眼前で殺害する凶行へと至り、合わせてゲタを支持していた大勢の貴族達が粛清された。これが暴君として名を残したカラカラの治世における最初の特筆されるべき行動であった。
カラカラは私生活では暴君の常として酒色に耽溺した生活を送り、それを窘める人間は容赦なく迫害した。自分の弟殺しを批判するアレクサンドリア市での噂を聞きつけると、弁明の場と称して民衆を集めた上で軍に殺戮させた。カッシウス・ディオ、ヘロディアヌスらにより、この凄惨な虐殺の記録が残されている。内政面では軍の給与保障の為に新通貨(正式名は不明だがアントニニアヌスと通称される)を発行、インフレーションを引き起して更に帝国財政を悪化させるなど思慮の浅い行為を繰り返した。特に税収確保の為に行ったアントニヌス勅令では全属州民に市民権を無条件付与したが、市民権の特権を事実上失わせたことで帝国内の民族バランスが大きく崩れ、同勅令は帝国崩壊の一因ともなった。外征面でも父に倣って親政を行ったものの、賠償金で蛮族を撤兵させるなど戦果を挙げることはできなかった。
形振り構わぬ軍への優遇策で父と同じ軍事独裁による体制維持に成功し、暴政と失態を繰り返しながらも治世は維持されていた。だが私怨を抱いていた護衛の兵士に放尿中に剣を突き立てられ、呆気ない最期を迎えた。子息や他の男系子孫もいなかった事でセウェルス朝は断絶し、重臣マクリヌスが元老院の支持を得て皇帝となった。
マクリヌスの帝位簒奪
カラカラ帝の親衛隊長官であったマクリヌスにはセウェルス朝との血縁がない。マクリヌスはカラカラの暗殺後帝位に就き、息子のディアドゥメニアヌスをアウグストゥスとして自らの王朝建設を試みた。また、自身の基盤の不安を取り除くため、セウェルス朝の外戚であったバッシアヌス家をローマから追放した。
しかし、これが裏目に出てしまった。バッシアヌス家の女当主ユリア・マエサ(セプティミウス・セウェルスの皇后ユリア・ドムナの姉妹)はセウェルス朝の復興を画策し、長女ユリア・ソエミアスの息子ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス(後のヘリオガバルス)をカラカラの落胤と称してシリアで反乱を起こした。
反乱軍に敗北したマクリヌスは処刑、息子のディアドゥメニアヌスもパルティアへの逃亡中に反乱軍に捕らえられて殺害され、マクリヌスの新王朝建設は失敗に終わった。
ヘリオガバルス
セウェルス朝の断絶によって外戚であったバッシアヌス家は宮殿から故郷シリアへと追放された。既に死没していた皇太后ユリア・ドムナの姉でバッシアヌス家の頭領となっていたユリア・マエサは密かに一族の復権を画策し、カラカラの従姉妹にあたる長女ソエミアスの息子である神官ヘリオガバルスを利用して反乱を起こした。マエサは後に女系だけでなく男系からも血統上の正当性を主張すべく、カラカラの親族として宮廷に出入りしていたソエミアスが皇帝の妾でヘリオガバルスは落胤であると主張した。金銭的な買収でバッシアヌス家に寝返った軍はマクリヌスを殺害、ヘリオガバルスが新たな皇帝となった。
皇帝としてヘリオガバルスはカラカラをある意味では凌ぐほどの暴政を行った。といっても粛清や弾圧というよりは、個人的な退廃や風紀の堕落という点においてである。ヘリオガバルスは神官でありながら酒色に耽って何人もの妻との離婚を繰り返し、その過程でウェスタの巫女を辱める行為まで働いた。加えて性的に倒錯した部分を持ち、自ら女装して男性の奴隷に犯される事に愉悦を覚えていたと伝えられる。こうした退廃は次第にエスカレートして男娼として街を歩き、挙句には宮殿を売春宿代わりにしたとカッシウス・ディオは伝えている。
また神官であった為かシリアで信仰されていたエルガバル神の崇拝を帝国国民に強制し、従来の信仰体系を無配慮に踏み躙った。帝国中の宗教的施設から宝物が持ち出されてローマ中心部に建設されたヘリオガバリウムなる神殿に安置され、そこでヘリオガバルスは神への忠誠として割礼を行い、舞踊を奉じる様を元老院議員に見るよう命じたという。
度重なる異常行動に再びセウェルス朝やバッシアヌス家への反感が高まると、ユリア・マエサは長女ソエミアスとヘリオガバルスを見限った。次女アウィタとその子であるもう一人の孫アレクサンデル・セウェルスを帝位継承者に立てたのである。危機感を強めたヘリオガバルスはアレクサンデルを追放しようとしたものの、逆にソエミアスと共に処刑された。その遺骸は首を切り落とされた上で裸体のまま馬に乗せられて晒し者にされ、最後にはテヴェレ川に投げ捨てられたという。
アレクサンデル・セウェルス
従兄の代理として祖母マエサに担ぎ出されたアレクサンデル・セウェルスは気弱だが温厚な人物で、ヘリオガバルス時代の乱れた風紀と極端な宗教政策を正す事に尽力した。
貴族達の支持を得たアレクサンデルは続いて財政再建に着手して重い負担になっていた軍事費の削減を行い、軍との距離を取り始めた。しかし軍事力を後ろ盾とするセウェルス朝にとってこの判断は命取りであった。各地で軍の反乱や不服従行為が広がり、加えて対外問題を金銭賠償で解決する路線が弱腰と評価された事も相まって、マインツ滞在中にゴート族出身の下級軍人マクシミヌス・トラクス率いる反乱軍に殺害された。
彼の死で復古されたセウェルス朝も終焉を迎え、以降は軍による帝位簒奪が繰り返される軍人皇帝時代が始まることとなる。
家系図
注
- ^ それまではウェスパシアヌス→ティトゥス、マルクス・アウレリウス→コンモドゥスの二例しかなかった。