ストロベリーロード(Strawberry Road, 1979年9月28日 - 1995年6月1日)は、オーストラリア出身のサラブレッドの競走馬・種牡馬。出身国のオーストラリアでオーストラリアンダービーなどを制したのちに国外に渡り、フランスやドイツ、アメリカ合衆国などでも競走生活を送った。2009年にオーストラリア競馬名誉の殿堂入りを果たしている[3]。
経歴
オーストラリア時代(1979-1983)
ストロベリーロードはニューサウスウェールズ州の生産者であるJ・パントスとG・ゲオルゴポウロスの両名に生産された牡馬であった。父ウィスキーロードは豪華な血統ながら未出走に終わった馬で、その種付け料も1500ドルと安く、また母ギフティサもセリ市で3000ドルで購入してきた安馬であったという[1]。生産者の2名のほかに、A・パントス、M・メネガッゾ、レイ・スター、ジョン・シングルトンらの共同名義で競走馬として登録され、クィーンズランド州のダグ・ボーガー調教師のもとに送られた。
1981/1982年の2歳シーズンの終わりごろにデビュー、2戦して勝てなかったものの、その後シーズンを跨いだ[注 1]1982年8月11日にイーグルファーム競馬場の未勝利ハンデキャップ戦で初勝利を挙げた。その後の条件戦も勝ち進んで4連勝を挙げたのち、シドニーのローズヒルガーデンズ競馬場で行われたホーバートヴィルステークス(G2・芝1400メートル)で重賞初挑戦、マースケイ(英語版)の2着に食い込んだ。
その次にはローズヒルギニー(G1・ローズヒルガーデンズ・芝2000メートル)に挑戦し、これを優勝して初のG1勝ちを収めると、続くAJCダービー(G1・ロイヤルランドウィック・芝2400メートル)でも5馬身半差で優勝を手にした[3]。その後クィーンズランド州に戻って4戦して3勝、そのうちの1勝はG1競走のクイーンズランドダービー(イーグルファーム・芝2400メートル)であった。結果、このシーズンはG1競走3勝を含む10勝を挙げ、ストロベリーロードは同シーズンの年度代表馬に選出された[3]。
翌シーズンも春はフリーウェイステークス(G1・ムーニーヴァレー・芝1200メートル)、センテニアルステークス(G2・ムーニーヴァレー・芝1600メートル)、コックスプレート(G1・ムーニーヴァレー・芝2040メートル)と大競走を制覇していったが、秋になると凡走が続いた。
その後、共同所有していた馬主のうちのレイ・スターとジョン・シングルトンが所有権をすべて獲得し、海外へ視野を向けた彼らによってストロベリーロードは1983年5月30日にフランスへと輸出された[4]。オーストラリア時代の総合戦績は26戦13勝であった。
ヨーロッパ時代(1983-1985)
フランスに送られたストロベリーロードは新たにジョン・ニコラス調教師に預けられた。ニコラス調教師のもとでの主な勝ち鞍に1984年のバーデン大賞(G1・バーデンバーデン・芝2400メートル)があり、このほか凱旋門賞(G1・ロンシャン・芝2400メートル)で6着、アメリカ合衆国に遠征してワシントンDCインターナショナル(G1・ローレルパーク・芝10ハロン)で3着、ブリーダーズカップ・ターフ(G1・ハリウッドパーク・芝12ハロン)で4着、さらに日本のジャパンカップ(東京・芝2400メートル)で7着と、国際舞台に多く出走していった。
1985年、ストロベリーロードは調教師がパトリック・ビアンコーヌに交代された。ビアンコーヌ調教師のもとでダルクール賞(G2・ロンシャン・芝2000メートル)で優勝したのち、ストロベリーロードは大馬主のダニエル・ウィルデンシュタインに目をつけられて購入された。ウィルデンシュタイン所有下でのストロベリーロードの主な勝ち鞍にサンクルー大賞(G1・サンクルー・芝2500メートル)がある。ウィルデンシュタインはストロベリーロードを再びブリーダーズカップ・ターフ(アケダクト競馬場開催)に挑戦させたが、イギリスのペブルス相手にクビ差2着に敗れている。
アメリカ時代(1985-1987)
ブリーダーズカップ・ターフのあと、ストロベリーロードはアメリカの馬主であるアレン・ポールソンとブルース・マクネルに購入され、そのままアメリカで競走生活を続けた。調教師にはチャーリー・ウィッティンガムが担当した。
アメリカ時代のストロベリーロードは引き続き芝競走を使われていたが、2着3着での取りこぼしが多く、サンタアニタパーク競馬場でのアーケイディアハンデキャップ(G2・芝10ハロン)が唯一の勝ち鞍であった。1987年1月25日のサンマルコスハンデキャップ(G3・サンタアニタパーク・芝10ハロン)で3着に入ったのを最後に引退した。
種牡馬入り後
競走馬引退後、ストロベリーロードはポールソンの持つケンタッキー州にあるブルックサイド牧場で種牡馬となった。アメリカジョッキークラブの調べによれば、ストロベリーロード産駒350頭のうち256頭が勝ち上がり、うち37頭がステークス競走勝ちを収めたとある[1]。産駒成績も上々で、1998年には北米リーディングの第4位に数えられている[1]。以下はその主な産駒。
- ディナード Dinard - 1988年生、牡馬。サンタアニタダービーなど。
- フレイズ Fraise - 1988年生、牡馬。ブリーダーズカップ・ターフなど。
- エスセーナ Escena - 1993年生、牝馬。ブリーダーズカップ・ディスタフなど。
- アジーナ Ajina - 1994年生、牝馬。ブリーダーズカップ・ディスタフなど。
1995年、ストロベリーロードは感染性の肺炎と腹膜炎を患い、その闘病中に右後肢の大腿骨を骨折、そのため安楽死の処置がとられた[1]。のちの2009年、オーストラリア競馬博物館はストロベリーロードをオーストラリア競馬名誉の殿堂に加え入れた[3]。
血統表
脚注
注釈
- ^ 南半球の競馬では8月1日から7月31日までを1シーズンとしており、競走馬は8月1日に加齢される。
出典
外部リンク