スタフカ (ウクライナ語 、ロシア語 : Ставка スターフカ 、英語 : Stavka )は、ロシア帝国 末およびソビエト連邦 における軍総司令部 (大本営 )である。西欧 の文献では、頭文字のように、しばしば STAVKA と大文字で表記されている。この用語は、所在地に対してと同じように、その幕僚に対して適用される場合がある。
第一次世界大戦時のロシア・スタフカ
総司令官ニコライ大公
第一次世界大戦 初期におけるロシア帝国軍最高総司令官は、皇帝 ニコライ1世 の孫、ニコライ・ニコラーエヴィチ 大公であった。彼は1914年8月の土壇場に任命され、戦争開始当初に使用された軍事作戦の立案には関わっていなかった。彼は有能であり、才気にあふれていた。1915年の夏、グリゴリー・ラスプーチン は大公を追い出すよう画策し、その結果皇帝ニコライ2世 が直接指揮するようになった。しかし、彼は完全に無能であった。
スタフカ本営は当初、ベラルーシ の(後にポーランド の)町・バラナヴィチ に設置された。ドイツ軍が侵攻した後の1915年、スタフカはベラルーシのマヒリョウ に移された。
1917年の2月(3月)革命 後も参謀総長ミハイル・アレクセーエフ を事実上の長としてスタフカは維持され、5月には1916年の南西戦線の英雄アレクセイ・ブルシーロフ が最高総司令官に就任。いわゆる「ケレンスキー攻勢 」を担った。しかしブルシーロフは7月のドイツ軍反攻を受けて更迭され、代わってラーヴル・コルニーロフ が就任した。8月、コルニーロフは臨時政府 に対して反乱を起こして罷免 され、大臣会議議長アレクサンドル・ケレンスキー 自らが最高総司令官を兼任した。10月(11月)革命 でケレンスキーが逃亡 すると参謀総長ニコライ・ドゥホーニン が最高総司令官代行となるが、臨時労農政府=人民委員会議 から出された停戦命令を無視したため罷免され、陸海軍人民委員ニコライ・クリレンコ が兼任し、停戦を迎えた。
第二次世界大戦時のソビエト・スタフカ
第二次世界大戦 (大祖国戦争 )時の赤軍スタフカ、もしくは赤軍総司令部 (Ставка Главного Командования )は、政府首班およびソ連共産党 指導者としての両資格の下、ヨシフ・スターリン によって署名された極秘指令により、1941年 6月23日 に創設された。この指令に従いスタフカは、国防人民委員 セミョーン・チモシェンコ 元帥が議長を務め、参謀総長 ゲオルギー・ジューコフ 、スターリン、ヴャチェスラフ・モロトフ 、クリメント・ヴォロシーロフ 元帥、セミョーン・ブジョーンヌイ 元帥、海軍人民委員ニコライ・クズネツォフ 提督をもって構成された。
また同じ指令によりスタフカ内にスタフカ常設顧問団 が組織され、クリーク 、シャポシニコフ 元帥、キリル・メレツコフ 、空軍 司令官ジガーレフ 、ヴァトゥーチン 、防空軍 司令官ヴォロノフ 、ミコヤン 、カガノーヴィチ 、ラヴレンチー・ベリヤ 、ヴォズネセンスキー 、ジダーノフ 、マレンコフ 、メフリス の同志らで構成された。
直後に、国防人民委員代理メレツコフは、ベリヤとフセヴォロド・メルクーロフ により、冤罪 で逮捕 された。その後メレツコフは、1941年9月、第1週の終りに刑務所 から釈放 され、同日スターリンに呼び出された。
ソ連軍総司令部は、1941年 7月10日 にソ連軍最高司令部 (Ставка Верховного Командования )に再編され、スターリンが議長となった。また1941年 8月8日 スターリンが最高総司令官に就任し、これにともない司令部もソ連軍最高総司令部 (Ставка Верховного Главнокомандования )に再々編された。
2022年ロシアのウクライナ侵攻における、ウクライナ・スタフカ
2022年2月24日のロシア軍全面侵攻 を受けて、大統領 ウォロディミル・ゼレンスキー が同日付で発令した2022年第72号大統領令に基づき、ウクライナ軍最高司令部(ウクライナ語 : Ставка Верховного Головнокомандувача )が設立された。
2023年9月8日時点での、最高司令部のメンバーは以下の通り。