ジョーン・オブ・ケント(英語: Joan of Kent, 1328年9月29日 - 1385年8月7日)は、イングランドのエドワード黒太子の妃で最初のプリンセス・オブ・ウェールズ。フェア・メイド・オブ・ケント(The Fair Maid of Kent, ケントの美女)と呼ばれた。エドワード2世の異母弟である初代ケント伯エドマンド・オブ・ウッドストックと妻マーガレット・ウェイクの娘。3度結婚しており、エドワード黒太子は最後の夫である。
生涯
1340年にトマス・ホランド(1314年頃 - 1360年)と最初の結婚をしたが、この結婚は秘密結婚であり、間もなく家族によって第2代ソールズベリー伯ウィリアム・モンタキュート(1328年 - 1397年)と結婚させられている。しかし、1349年にローマ教皇クレメンス6世により、ジョーンはソールズベリー伯との結婚の無効、およびトマス・ホランドの結婚の有効が認められた。1352年にジョーンの弟である第3代ケント伯ジョン(1330年 - 1352年)の死によりジョーンは夫トマス・ホランドと共にケント伯を継承した[1][2]。
2人の間に生まれた子供は4人が知られている。
1360年にトマス・ホランドと死別した後、翌1361年にエドワード黒太子と再婚した。ジョーンは黒太子の父エドワード3世の従妹に当たる。黒太子との間には2男をもうけた[3][1][2]。
- エドワード・オブ・アングレーム(1365年 - 1372年)
- リチャード2世(1367年 - 1400年) - イングランド王
1376年に黒太子が死去、1377年にリチャード2世が即位した。ジョーンは幼少のリチャード2世を手元に置いて育て上げ、1385年に56歳で亡くなるまで彼の人格形成に大きな影響を与えた[4]。トマス・ホランドとの間に生まれた息子達はリチャード2世に重用され、1397年に次男ジョンはエクセター公、孫のトマス・ホランドはサリー公に叙爵されたが、1399年にリチャード2世が廃位されヘンリー4世が即位すると冷遇され、1400年に両者は謀反に失敗してソールズベリー伯ジョン・モンタキュート(ジョーンの2番目の夫ウィリアム・モンタキュートの甥)、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサーと共に処刑された[5]。
ジョーンにはガーター勲章にまつわる伝説がある。百年戦争における1347年のカレー包囲戦で勝利、カレーを占領したイングランド軍が開いた舞踏会で、ジョーンがダンス中にガーターを落とし、それを拾い上げたエドワード3世が自分の左足にはめてジョーンをフォローしたことがガーター勲章誕生のきっかけとされている。史実とは認められていないが、騎士道精神を示す逸話として語り継がれている。なお、ガーター騎士団は王族限定ながら創設当初から女性の受爵を認めている[6][1][2]。
脚注
- ^ a b c 森(1994年)、P197。
- ^ a b c 松村、P377。
- ^ 森(1986年)、P143、P158。
- ^ ロイル、P36 - P37、P46 - P47。
- ^ 森(1986年)、P187、ロイル、P75 - P76、P83、P91、P424。
- ^ 森(1986年)、P152 - P153。
参考文献
- Tait, James (1892). “Joan”. Dictionary of National Biography 29: 392–393.
- The Times Kings & Queens of The British Isles, by Thomas Cussans (page 92) ISBN 0-0071-4195-5
- Wentersdorf, Karl P (1979). “The clandestine marriages of the Fair Maid of Kent”. Journal of Medieval History 5: 203–231. doi:10.1016/0304-4181(79)90037-X.
- 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年。
- 森護『英国王室史事典-Historical encyclopaedia of Royal Britain-』大修館書店、1994年。
- 松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。
- トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。