スザンヌ・ファレル とともに自身の振付による『ドン・キホーテ 』を踊るバランシン(右、1965年)
ジョージ・バランシン (George Balanchine, 1904年 1月22日 [ 1] - 1983年 4月30日 )は、ロシア 出身のバレエダンサー ・振付家 である。本名はギオルギ・バランチヴァーゼ (Giorgi Balanchivadze, 露 : Георгий Мелитонович Баланчивадзе , グ : გიორგი მელიტონის ძე ბალანჩივაძე)。
サンクトペテルブルク の帝室劇場 でダンサーをしていたが、十月革命 後の混乱の中でソ連 から亡命。バレエ・リュス の振付家として活動した後、渡米してニューヨーク・シティ・バレエ団 を設立した。バランシンは、19世紀に確立されたクラシック・バレエ から物語性を排し、純粋な身体の動きを追求した作品を生み出したことにより、20世紀のバレエに多大な影響を与えた[ 2] 。
経歴
1904年、サンクトペテルブルク のグルジア人 の家庭に生まれる。父親はグルジア国民楽派 のオペラ作曲家、メリトン・バランチヴァーゼ
[ 3] 。弟アンドリア・バランチヴァーゼ も作曲家で、バランシン自身もいくつか小品を作曲している。
バランシン(1920年代)
1921年にペテルブルクの旧帝室バレエ学校 を卒業し、1924年までマリインスキー劇場 にバレエダンサー として出演。1923年にペトログラード音楽院 を卒業する。この頃、帝室バレエ学校の教え子であったタマーラ・ジェヴェルジェーエワ(芸名はタマラ・ジェーワ )と最初の結婚をするが、1926年に離婚。渡米後に3回結婚している(いずれもバレエダンサーのヴェラ・ゾリーナ 、マリア・トールチーフ 、タナキル・ルクレア )が、いずれも離婚し子供をもうけなかった[ 4] [ 5] 。
1924年に小さなバレエ団を作ってソ連 を去り、西欧 ツアーを敢行する。ロンドン でセルゲイ・ディアギレフ に認められ、請われてバレエ・リュス に加わった。膝関節 の故障によりダンサーとしてのキャリアは終わったが、バレエマスター 兼首席振付家としてディアギレフの下で5年間の実りある活動を行った。この頃生み出された作品に『アポロ 』(1928年)、『放蕩息子 』(1929年)がある。ストラヴィンスキー との付き合いもこの時期から始まった。ディアギレフの死後はパリ・オペラ座バレエ のバレエマスター就任を依頼されたが、結核 のためにこれを受けることが出来ず、回復後にデンマーク王立バレエ団 のバレエマスターを経て、バレエ・リュス・ド・モンテカルロ の旗揚げに参加。ここでタマーラ・トゥマーノワ の才能を発掘した。
1933年、パトロンのリンカーン・カースティン に説得されて、バレエ団を設立するために渡米した。バランシンは先ず学校を作ることが優先であると説き、アメリカン・バレエ学校(School of American Ballet)を設立した。2年後の1935年、その卒業生からなるアメリカン・バレエ(The American Ballet)を発足させた[ 6] 。
ダンサーを指導するバランシン(右、1965年)
1946年にバレエ協会を設立、これは現在のニューヨーク・シティ・バレエ団 となる。1954年の『くるみ割り人形 』公演によって、米国 でもクリスマスにこの作品を取り上げることが習慣となった。ミュージカルや映画、テレビ番組でも振付を担当、リチャード・ロジャーズ やヴァーノン・デューク らに協力した。一方でバレエ・リュス以来のストラヴィンスキーとの協力関係は続き、『カルタ遊び 』(1937年)、『オルフェウス 』(1947年)、『アゴン 』(1957年)が作られた。また舞踊音楽として作曲されていない器楽曲への振付も行った[ 7] 。
1978年、舞踊中にバランスを失い、その後に体の安定、視力 、聴力 が衰え始める。1982年までに活動不能に陥った。1983年に79歳で他界した。存命中はバランシンが生検 に同意しなかったため病は謎のままだったが、解剖 の結果それがクロイツフェルト・ヤコブ病 と判明した[ 8] 。
主な振付作品
『コンチェルト・バロッコ (英語版 ) 』の上演(2013年)
『テーマとヴァリエーション 』の上演(2017年)
バランシンは生涯で400以上の作品を振り付けたが、その多くは、物語のない「プロットレス・バレエ」である[ 9] 。19世紀に確立されたクラシック・バレエ が物語を伴っていたのに対し、バランシンは、クラシック・バレエの舞踊技術を継承しつつも独自に発展させ、ダンサーの身体の動きによって音楽そのものを表現する、いわば「音楽の視覚化」を試みた[ 10] 。このようなバランシンの作品は、20世紀バレエにおける重要な変革であり、クラシック・バレエの純粋化を図ったという点で「新古典主義(ネオクラシック)」とも呼称される[ 10] [ 11] 。
主な振付作品は以下の通りである[ 12] [ 13] 。
脚注
^ ロシア で用いられていたユリウス暦 では1月9日 。
^ クレイン他、p.394-395.
^ テイパー、pp.30-32.
^ 『バレエ音楽百科』pp.270-271.
^ 鈴木、pp.252-254.
^ ニューヨーク・シティ・バレエ団 - 沿革 の項を参照。
^ 音楽家としての教育を修了していたバランシンにとってはお手のものであった。メンデルスゾーン の交響曲に振付けた 『スコッチ・シンフォニー』(1952年)、ブラームス のリート に振付けた 『愛の歌』(1960年)など。
^ テイパー、pp.431-432.
^ 渡辺、p.110-111.
^ a b 鈴木、p.90.海野、p.128.
^ クレイン他、p.238.
^ テイパー、pp.203-205.
^ テイパー、pp.446-471.
参考文献
関連項目
バランシーン - イギリス等で活躍した競走馬。馬名の由来となった。
堀内元 - バランシンに見出され、ニューヨーク・シティ・バレエ団に入団したバレエダンサー。