ジョニー・ウィーバー(Johnny Weaver、本名:Kenneth Eugene Weaver、1935年11月17日 - 2008年2月15日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。イリノイ州イーストセントルイス出身[1]。
日本では「ジョニー・ウェーバー」とも表記される。"The Dean of Wrestling" の異名を持つ技巧派のベビーフェイスとして、NWAのミッドアトランティック地区を主戦場に活動した[3]。
来歴
ストックカーのレーサーを経て、1955年にデビュー[1]。ジョニー・エース(Johnny Ace)と名乗って各地を転戦後、1960年代よりリングネームをジョニー・ウィーバー(Johnny Weaver)に定着させ、1961年から1962年にかけてはオハイオやインディアナなどの中西部において、サニー・ウィーバーことサニー・マイヤースとのタッグチームで活動した[2][3]。
その後、長年の主戦場となるノースカロライナのミッドアトランティック地区に進出、1963年12月2日にカウボーイ・ボブ・エリスと組み、リップ・ホーク&スウェード・ハンセンからNWA南部タッグ王座を奪取[4]。以降はジョージ・ベッカーをパートナーに、ラリー・ハミルトン&パンピロ・フィルポやミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)などのチームを破って同王座を再三獲得[4]。シングルでは1967年から1968年にかけて、ミズーリ・モーラーやヒロ・マツダとNWA南部ヘビー級王座を争った[5]。
1970年代前半はドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦して引き分けており、1972年2月14日にはテキサス・デスマッチでも雌雄を決した[6]。1974年8月には全日本プロレスに初来日、同時参加したファンク・ジュニアのパートナーとなって、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビとも対戦している[7]。
主戦場のミッドアトランティック(ジム・クロケット・ジュニア主宰のMACW)ではジョニー・バレンタイン、ブルート・バーナード、イワン・コロフ、スーパー・デストロイヤーと抗争[8]。他地区での活躍も続け、フロリダ地区では1975年2月18日、ディック・スレーターと組んでドミニク・デヌーチ&トニー・パリシからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取[9]。1976年10月14日にはテキサス州アマリロにて、MACWでタッグを組んでいたアート・ネルソンが正体のスーパー・デストロイヤーを破り、NWAインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した[10]。
1970年代後半よりMACWに定着し、1978年3月5日にバロン・フォン・ラシクからNWAミッドアトランティックTV王座を奪取[11]。以降もベテランのベビーフェイスとして、マスクド・スーパースター、キム・ドク、ケン・パテラ、リック・フレアー、グレッグ・バレンタイン、レイ・スティーブンス、ロディ・パイパーらと対戦。1981年は、上期にデューイ・ロバートソンと組んでミスター・フジ&天龍源一郎、11月27日にジェイ・ヤングブラッドと組んでニコライ・ボルコフ&クリス・マルコフを破り、NWAミッドアトランティック・タッグ王座を2回獲得[12]。1983年11月24日に開催された『スターケード』の第1回大会では、スコット・マギーをパートナーにケビン・サリバン&マーク・ルーインと対戦した[13]。
1986年のセミリタイア後はMACWのブッカーおよびコメンテーターとして活動[2]。1987年11月には悪党マネージャーのJ・J・ディロンやマツダを相手に試合にも出場したが[14]、翌1988年のテッド・ターナーによるMACW買収に伴いプロレス界を離れた[2]。
引退後はMACWの本拠地だったノースカロライナ州シャーロットにて、保安官代理を19年間務めていた[2]。1995年5月20日には、ジム・コルネットが主宰していたスモーキー・マウンテン・レスリングのイベント "Carolina Memories" に、ミスター・レスリング、エイブ・ジェイコブズ、ネルソン・ロイヤル、マグナムTAらと共にレジェンドとして出席した[15]。
2008年2月15日、72歳で死去[2]。
得意技
獲得タイトル
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
- イースタン・スポーツ・アソシエーション
脚注
外部リンク