リップ・ホーク(Rip "The Profile" Hawk、本名:Harvey Maurice Evers、1930年6月6日 - 2012年12月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ノースカロライナ州シャーロット出身。
スウェード・ハンセンとのブロンド・ボンバーズ(The Blond Bombers)など[4]、タッグマッチの名手として活躍、日本では「タッグの解体屋」の異名を付けられた[5]。駆け出し時代のリック・フレアーも、彼のパートナーに起用されて飛躍のきっかけを掴んだ[2][6]。
来歴
デビュー後の1950年代は、ノースカロライナをはじめイリノイやオハイオ、セントラル・ステーツなど各地を転戦[1]。ジョージアではフレッド・ブラッシー、セントルイスではカウボーイ・ボブ・エリスやジョニー・バレンタインと対戦し、ジン・キニスキーともタッグを組んだ[7]。1961年10月23日にはホームタウンのシャーロットにて、バディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[7]。
1962年より、地元ノースカロライナを本拠地とするミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング(MACW)にて、スウェード・ハンセンとの金髪のヒール・タッグチーム、ブロンド・ボンバーズを結成[8]。以降、小型ラフファイターの司令塔ホークと巨漢パワーファイターの執行者ハンセンというコンビネーションのもと、各地のタッグマッチ戦線を席巻[3][4]。1965年8月3日にはフロリダにてデューク・ケオムカ&ヒロ・マツダからNWA世界タッグ王座を獲得[9]。1967年5月には日本プロレスに揃って来日、アントニオ猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した[5]。
1968年6月には主戦場のMACWにてエドワード・カーペンティア&ミゲル・ペレスを下し、NWA大西洋岸タッグ王座の初代チャンピオン・チームとなる(以降もネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズなどのチームを抗争相手に、通算4回に渡って戴冠)[10]。ジム・バーネットが主宰していたオーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリングにも遠征し、1970年4月にバディ・オースチン&カーティス・イヤウケアから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取した[11]。主戦場のMACWでは1972年にジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーと抗争[12]。シングルでも実績を残し、同年上期にジャック・ブリスコ、下期にジェリー・ブリスコを相手にNWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座を争い、通算4回に渡ってブリスコ兄弟から同王座を奪取している[13]。
1973年末より一時MACWを離れて単身でフロリダ地区に転戦していたが、その間にスウェード・ハンセンがベビーフェイスに転向。1974年のMACW復帰後はハンセンを裏切り者呼ばわりして遺恨試合を展開し、若手ヒールのリック・フレアーを自分の「甥」と称して新パートナーに起用[14]。7月4日にはNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得[15]、フレアーにとっては初のタイトル戴冠となった(デビュー2年目のグリーンボーイだった当時のフレアーは、それまで経験したことのない多くのことをホークから学んだと自著で述懐している)[6]。
以降はハンセンと袂を分かち、1975年はNWFの残党が参画していたアメリカ北東部の独立団体IWAに出場、ネルソン・ロイヤル、ディノ・ブラボー、ジノ・ブリット、マイティ・イゴール、アルゼンチン・アポロ、テキサス・マッケンジーなどと対戦し、ミル・マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[16]。
1976年、テキサス西部のアマリロ地区にてハンセンとのブロンド・ボンバーズを再結成。エイブ・ジェイコブズ&ペッツ・ワトレーなどのチームを破り、翌1977年にかけてNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を通算3回獲得した[17](その間の1976年10月には、単身で新日本プロレスに参戦、9年ぶりの来日を果たしている[5])。アマリロではドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスとも対戦[18]。ファンクスはアンドレ・ザ・ジャイアント、ボンバーズはサイクロン・ネグロと組んでの6人タッグマッチも行われた[19]。
1977年後半にハンセンがアマリロを離れてチームは正式に解散したが[3]、ホークは1980年まで同地区に定着してリッキー・ロメロらと抗争[1]。キャリア末期の1981年はカルガリーのスタンピード・レスリングに出場していた[1]。
晩年はテキサス州ハーフォードに居住し、1990年代はYMCAにてレスリングのコーチをしていた[2]。2007年には、すでに他界していたハンセンと共にミッドアトランティック版のNWA殿堂に迎えられた(殿堂入りのインダクターは、彼らのマネージャーを務めていたゲーリー・ハートが担当した)[20]。
2012年12月22日、心臓病のため死去[2]。82歳没[2]。
得意技
獲得タイトル
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
- NWAロッキー・マウンテン・ヘビー級王座:1回[22]
- NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:3回(w / スウェード・ハンセン)[17]
- サウスウエスト・スポーツ・インク
- NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
- NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / ロック・ハンター)
- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
- IWA世界タッグ王座:1回(w / スウェード・ハンセン)[11]
脚注
外部リンク