アミオはフランスの国務卿だったアンリ・レオナール・ジャン・バティスト・ベルタンの知りあいであり、北京からベルタン他にあてて多数の報告を送っている。それらは主にパリの刊行物『中国人の歴史・科学・芸術・風俗・習慣等に関する覚え書き』(Mémoires concernant l’histoire, les sciences, les arts, les mœurs, les usages, & c. des Chinois, 1776-1814)に収録されている。中国音楽に関する報告(第6巻所収、1780年)、『孫子』のフランス語訳(第7巻所収、1782年)、大部の孔子伝(第12巻、1786年)などが含まれる。
アミオ以降、イエズス会が禁止される1770年代までイエズス会士は北京入りしており、画家のルイ・ド・ポワロ(Louis de Poirot、1771年に到着)は1813年まで生きていた。それ以降はラザリスト会が取ってかわり、欽天監で働いたGaetano Pires Pereira(畢学源)は1838年に北京で没した。しかし嘉慶・道光年間には禁教はより厳格になり、宣教は困難だった。乾隆帝の時代に残されていた北京の教会も、19世紀初頭に閉鎖された。
Nii, Yoko(新居洋子) (2013). “The Jesuit Jean-Joseph-Marie Amiot and Chinese Music in the Eighteenth Century”. In Luis Saraiva. Europe and China: Science and the Arts in the 17th and 18th Centuries. World Scientific. pp. 81-92. ISBN9814390445