ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg 、1894年 5月29日 - 1969年 12月22日 )は、アメリカ合衆国 の映画監督 、脚本家 、映画プロデューサー である。ドイツ語 読みはヨーゼフ・フォン・シュテルンベルク。マレーネ・ディートリヒ とのコンビで有名。
来歴・人物
オーストリア=ハンガリー帝国 時代のウィーン にドイツ系ユダヤ人 の子として生まれる。誕生名はヨーナス・シュテルンベルク(Jonas Sternberg)。
彼の父親は元陸軍の兵士で、ほとんど家庭を省みなかったという。7歳の時、家族と共に米国 に移民、3年後ウィーンへ戻り、14歳で再びニューヨーク へ帰る。ハイスクールを貧困のため中退、レース屋、婦人帽子屋、織物業者などを転々とする。本来は作家志望だったがアルバイトの映写係をきっかけに映画の世界へ転じる。
ハリウッド で、フィルム補修技師、撮影助手 、編集技師 、助監督 をつとめ、若い俳優ジョージ・K・アーサーに資金を調達してもらい、わずか3,500ドルで『救ひを求むる人々 』(1925)を製作した。この映画は先輩エリッヒ・フォン・シュトロハイム の自然主義 の流れをくむが、渋い内容に映画会社は全く取り合わない。チャールズ・チャップリン 邸に強引に持ち込み見てもらい、当時チャップリンが創業者の一人であったユナイテッド・アーティスツ が配給し上映した。チャップリンに目をつけたのは、彼が貧乏人に理解があると睨んだためであった。チャップリンのプロデュースにより『A Woman of the Sea 』を監督するが、チャップリンはこれに不満を抱き公開を見送った[ 1] 。次にパラマウント映画 でハリウッド・デビュー。意識してドイツ系の格式ばった姓の前置詞「フォン 」を名乗り、ジョセフの綴りも意識してドイツ語にこだわる。ギャング の生活に哀愁を込めたギャング映画 黎明期の傑作『暗黒街 』(1927)、社会の底辺に住んでいる人々の純情な恋模様を描いた『紐育の波止場 』(1928)は両作品とも興業的に成功した。
『モロッコ 』のディートリヒ。
映画は音の出るトーキー 時代を迎え、ドイツ の大プロデューサー 、エーリヒ・ポマー は、ドイツ映画界最初のトーキー映画として『嘆きの天使 』(1930)の監督に、ドイツ在住経験のあるスタンバーグに白羽の矢を立てた。世間知らずの真面目な高校教師(エミール・ヤニングス )がキャバレー のダンサーのローラ・ローラ(マレーネ・ディートリヒ)の色香の虜になり、日参するが、学校を追われ、旅興行の道化役者となり、最後は高校の教室で絶命する。スタンバーグを代表する傑作で、まさに退廃的な美貌と脚線美の新人の女優ディートリヒと手を携えてハリウッドに戻った。この時期、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー、フリッツ・ラングらドイツからハリウッドに移った監督は数多いが、ほぼアメリカ育ちで、いわばドイツに逆上陸した彼の例は非常に珍しい。
パラマウントはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー のグレタ・ガルボ に対抗すべく、切り札としてディートリヒを売り出した。片道切符で砂漠に流れた酒場女を描いた『モロッコ 』(1930)はスタンバーグとのコンビの名声を確実にした。その後戦争未亡人がスパイとして銃殺される『間諜X27 』(1931)、動乱の中国に舞台を置いた『上海特急 』(1932)、家庭と愛人との板挟み『ブロンド・ヴィナス 』(1932)、女王の一代記『恋のページェント 』(1934)。それぞれの作品では舞台も役柄も異なるがスタンバーグが独特の映像美の中にディートリヒをいかに引き立たせることに専念していたことは誰の目にも明らかであった。このような監督と女優との結びつきは映画史上例を見なかった。『西班牙狂想曲 』(1935)を最後にスキャンダル化した愛も破れ(彼は別に生涯3回結婚と離婚を繰り返した)、このコンビは解消したのであった。『モロッコ』と『上海特急』でアカデミー監督賞 にノミネートされている。
右からアーノルド・ファンク 、原節子 、ジョセフ・フォン・スタンバーグ(1936年8月、軽井沢 にて)
1930年代後半以降、会社との意見の相違も多く、作品は思うにまかせなかった。気力と精根を使い果たした彼は、名声を失い、急速に衰えてしまったのである。これは、まさに「ハリウッド」の神話の一つである [独自研究? ] 。
1952年 に公開された『マカオ (英語版 ) 』がハリウッドで撮った最後の映画となり、日本で撮影して1953年 に公開された日本映画『アナタハン 』が最後の映画となった。1949年 から1950年 にかけて一部を撮影した『ジェット・パイロット 』は1957年 に公開されている。1959年 から1963年 にかけてカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA)の映画科で教鞭をとった。
1969年12月22日、心臓病のためハリウッドの病院で死去。75歳[ 2] 。
主な監督作品
救ひを求むる人々 The Salvation Hunters (1925) - 監督・脚本・撮影
暗黒街 Underworld (1927)
紐育の波止場 The Docks of New York (1928)
非常線 The Dragnet (1928)
最後の命令 The Last Command (1928)
女の一生 The Case of Lena Smith (1929)
サンダーボルト Thunderbolt (1929)
嘆きの天使 Der Blaue Engel (1930)
モロッコ Morocco (1930)
アメリカの悲劇 An American Tragedy (1931)
間諜X27 Dishonored (1931)監督 /脚本
上海特急 Shanghai Express (1932)
ブロンド・ヴィナス Blonde Venus (1932)
恋のページェント The Scarlet Empress (1934) - 監督・脚本
西班牙狂想曲 The Devil Is a Woman (1935) - 監督・製作・撮影
罪と罰 Crime and Punishment (1935)
陽気な姫君 The King Steps Out (1936)
アナタハン The Saga Of Anatahan (1953)
ジェット・パイロット Jet Pilot (1957)
受賞歴
脚注
^ “Underworld ”. silentfilm.org . 2023年12月9日 閲覧。 “He did complete one picture, A Woman of the Sea, but producer Charlie Chaplin was dissatisfied and did not release it.”
^ 訃報欄 ジョセフ・フォン・スタンバーグ(米映画監督)『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月23日夕刊、3版、11面
外部リンク
1920年代 1930年代 1940年代 1950年代 その他
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