ジョアン・マヌエル・ヴィエイラ・ピント (João Manuel Vieira Pinto, 1971年 8月19日 - ) は、ポルトガル共和国 ポルト 出身の元サッカー選手 である。現役時代のポジションはFW 、MF 。ジョアン・ピント と呼ばれる。
ポルトガル代表 黄金世代 と呼ばれた世代のひとりであり、フェルナンド・ブラッサルド (ポルトガル語版 ) とともに、FIFAワールドユース選手権 優勝を2度経験した。フル代表でもUEFA欧州選手権 やFIFAワールドカップ などの大会に出場した[ 1] 。
経歴
ユース時代
ジョアン・ピントはポルト市内東部のカンパーニャに所在するクラブ、バイーロ・ド・ファルカン (Bairro do Falcao) およびアグイアス・ダ・アレオサ (Aguias da Areosa) でプレーした後、FCポルト のユースチームのセレクションを受験した。しかし合格する事ができなかったため、ボアヴィスタFC のユースチームに入団する事となった。1988年からトップチームでも登録されるようになり、17歳でスーペル・リーガ のリーグ戦に出場するようになった。
1990-91年度はスペイン に渡り、アトレティコ・マドリードB で過ごしたが、シーズン終了後ボアヴィスタに復帰した。この年度では43試合に出場して8得点を挙げた他、1992年度のポルトガルカップ 優勝を経験し、ポルトガル年間最優秀選手賞を受賞した。シーズン終了後SLベンフィカ と契約し、移籍した。
ベンフィカ時代
ベンフィカ移籍後の1992年、ジョアン・ピントは1994 FIFAワールドカップ 予選を戦うポルトガル代表の一員として選出され、スコットランド に遠征したが、その期間彼は気胸 の症状に苦しんだ。後に治癒はしたものの、1992-93年度は試合に出る事ができなかった。1993-94年度から復帰し、チームの主力選手のひとりとして活躍した。
エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ で開催されたスポルティングCP とのダービーマッチではハットトリック を達成 (試合は6-3でベンフィカの勝利) したのを始めとしてベンフィカの勝利に貢献し、同シーズンをベンフィカは優勝という結果で終えた。
1995年、ピントは引退するアントニオ・ヴェローゾ (ポルトガル語版 ) の後を継いで主将に就任した。しかし1995-96年度はカップ戦で優勝はしたものの、リーグタイトルは逃した。翌年度以降もベンフィカはタイトルから遠ざかったが、それでもピントはマヌエル・ルイ・コスタ ともども、ポルトガル代表 では主力選手のひとりとしてあり続けた。
2000年、年俸を巡って会長のジョアン・ヴァレ・エ・アゼヴェド (João Vale e Azevedo) と争った末、ピントはベンフィカとの契約を解除した。それはUEFA EURO 2000 の1週間前の事であった。ピントは無所属のまま同大会に臨み[ 2] 、大会準優勝に貢献した。
スポルティングCP時代
EURO 2000 終了後より、ジョアン・ピントはポルトガル国外のクラブから複数獲得のオファーを受けていたが、いずれも受諾せず、スポルティングCP に入団した。2004年にSCブラガ に移籍するまでの間に、4年間で142試合に出場して32得点を挙げた。特にマリオ・ジャルデウ が加入した2001-02年度シーズンではジャルデウと共に活躍し、同年度リーグ優勝・ポルトガルカップ優勝に貢献した。しかし2002 FIFAワールドカップ のグループリーグ戦第3戦 (対戦相手: 韓国 ) の最中、ピントは相手選手へのタックルでレッドカードを受けて退場処分となった上[ 3] 、主審のアンヘル・サンチェス (スペイン語版 ) に暴力行為を働き、6ヶ月間の公式試合出場停止処分を言い渡された (後4ヶ月に軽減)[要出典 ] 。
ボアヴィスタ (第2期)、およびブラガ時代
2004年にジョアン・ピントはボアヴィスタに戻り、2006年まで在籍した。在籍2年目の2005-06年度にボアヴィスタはリーグ6位の成績を挙げた。ピントは年間で9得点を挙げている。シーズン終了後の7月、SCブラガ との1年間の契約に応じて移籍した[ 4] 。
ブラガ加入1年目の2006-07年度、ピントは24試合に出場して2得点を挙げた。クラブは年間4位の成績でシーズンを終え、ピントは契約延長により、2007-08年度もブラガでプレーする事となった[ 5] 。しかし2008年2月、ピントはMLS 所属のトロントFC の練習に参加し、同月22日、ブラガとの契約が解除された事が発表された[ 6] 。
トロントとの契約は破談となり、その後サウジアラビア のアル・ヒラル との交渉も破談となった。2008年7月22日、ジョアン・ピントは現役引退を表明した[ 7] 。
引退後はポルトガルサッカー連盟 のディレクターとして働いている。
私生活
ジョアン・ピント(2012年)
ジョアン・ピントは10代で結婚し、2人の子の父親となったが、2003年に離婚した。
1988年に生まれた先妻の息子チアゴ・ピント (ポルトガル語版 ) はSLベンフィカ およびスポルティングCP の下部組織を経て、CDオリヴァイス・エ・モスカヴィジ (ポルトガル語版 ) で初めてプロ選手となった。現在はリオ・アヴェFC 所属。チアゴは09年6月に交際していた女性と結婚し、2010年6月に息子が誕生した為ピントは祖父となった。
後にピントはポルトガルのモデルでテレビ司会者のマリサ・クルス と交際し再婚、彼女との間に息子が2人いたが2013年に離婚した。
2歳下の弟セルジオ・ピント (英語版 ) もプロサッカー選手となった[ 8] 。
ポルトガル代表としてのキャリア
1989年、ジョアン・ピントはU-20ポルトガル代表 に選出され、サウジアラビア で開催されたワールドユース に出場。グループリーグのナイジェリア 戦で1得点を挙げた。1991年、再びU-20代表に選出され、開催国代表としてワールドユース に出場。主将として臨んだこの大会で6試合に出場した他、アイルランド 戦で1得点を挙げた。
1991年にA代表デビューして以来、ピントは通算81試合に出場して23得点を挙げた。また代表選手として、UEFA欧州選手権 に1996年、2000年と2度出場しただけでなく、2002 FIFAワールドカップ にも出場した。同大会終了後、ピントは代表から引退した。
成績
タイトル
クラブ
ボアヴィスタFC
SLベンフィカ
スーペル・リーガ : 1回 (1993-94)
ポルトガルカップ : 2回 (1992-93, 1995-96)
スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル
スーペルリーガ : 1回 (2001-02)
ポルトガルカップ : 1回 (2001-02)
ポルトガルスーパーカップ : 1回 (2001)
U-20ポルトガル代表
個人
ポルトガル年間最優秀選手賞 : 3回 (1992, 1993, 1994)
脚注
外部リンク
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代