ジュール・フランソワ・カミーユ・フェリー(Jules François Camille Ferry、1832年4月5日 - 1893年3月17日)は、フランスの政治家。第三共和政の下で首相を2度務めた(在任:1880年 – 1881年、1883年 – 1885年)。初等教育の無償化、世俗化、義務化を実現した。
略歴
生い立ち
1832年4月5日にサン=ディエ=デ=ヴォージュ(ヴォージュ県サン・ディエ)で生まれ、パリで法学を修め[1]、1854年に弁護士資格を取得した[2]。しかし、フェリーはすぐに政治に関わるようになり、『ル・タン(英語版)』紙など多くの新聞に寄稿してフランス第二帝政を激しく批判、特にセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンを集中的に攻撃した[1]。1868年には『オスマンの幻想物語』を出版して、オスマンの大規模開発事業を抗議した。
政界入り
1869年にパリの立法院議員に当選した後、対独宣戦布告(普仏戦争)に反対した[1]。1870年9月6日に国防政府(英語版)よりセーヌ県知事に任命された[1]。セーヌ県知事としては包囲戦(英語版)の最中のパリの行政を担当[1]、最後の一人になるまで市庁に残ったことが、のちに賞賛された。その後、パリ・コミューン期を経て1871年6月5日に辞任を余儀なくされた[1]。
1872年から1873年までアドルフ・ティエールの任命により在ギリシャフランス公使(英語版)を務めた[1]。しかし一方でヴォージュ県の代表として代議院議員に当選、共和派オポチュニスト党(英語版)(Républicains opportunistes、中道共和派とも)の指導者の1人になった[1]。
公共教育大臣として
1879年2月4日に共和派初の内閣であるウィリアム・アンリ・ワディントン(フランス語版、英語版)内閣が成立すると、フェリーも入閣して公共教育大臣を務めた[1]。いわゆるジュール・フェリー法と呼ばれる一連の教育に関する法律の策定に取りかかる。教育相時代には私学による学位授与の禁止(1880年3月12日)や許可を受けていない宗教団体の解散(1880年3月29日)といった措置を講じた。その後、1880年9月23日から1881年11月10日まで首相を務め、初等教育の無償化[5](1881年6月16日)や女子中等教育の拡充(1881年12月21日)を行う。
シャルル・ド・フレシネ内閣の下で1882年1月31日から同年7月29日まで再び教育相を務めることとなり、ライシテ[6]と義務教育に関する法律[7](1882年3月28日)や女子高等師範学校の設置および女性に対するアグレガシオン(1等教員資格)の授与(1882年7月13日)を実行に移した。[8]。
外務大臣として
教育政策に熱心だったフェリーは同時にフランスの植民地拡大を積極的に支持しており、チュニジア侵攻の際には1881年にチュニジアを保護国化した[1](バルドー条約(アラビア語版、フランス語版、英語版)も参照)。また、第1次マダガスカル遠征(英語版)を終結した条約(1885年12月17日)を準備したほか、コンゴ遠征やニジェール遠征を推進、ヴェトナムにも勢力を拡大した[1]。
1883年2月21日に始まる2度目の首相在任期に、ヴェトナム侵攻に際して、中国(清)との衝突(清仏戦争)を引き起こした。しかし、清仏戦争において第二次ランソン攻勢(英語版)という大失態を起こしてしまい(トンキン騒動(英語版))、1885年3月30日に辞任を余儀なくされた[1]。ただし、1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約はフェリーの功労である[1]。
晩年
1887年12月2日にジュール・グレヴィ大統領が辞任すると大統領選挙(フランス語版)が行われ、フェリーも立候補したが、急進共和派はフェリーへの支持を拒否、結局フェリーはマリー・フランソワ・サディ・カルノーを支持して選挙戦から撤退した[1]。10日[2]にはブーランジェ運動の活動員の凶弾で負傷した[1]。1890年に元老院議員に当選、死去から3週間前には元老院議長に選出された[2]。1887年12月に受けた銃創が完治しないまま、1893年3月17日に死去した[1]。死後、代議院はフェリーの国葬を可決した[1]。
脚注
参考文献
- フランソワ・トレモリエール 著、樺山紘一 訳、カトリーヌ・リシ 編『ラルース 図説 世界史人物百科Ⅲ フランス革命-世界大戦前夜』原書房、2005年。ISBN 4-562-03730-X。
外部リンク