ジェームス・マッカーシー (James McCarthy , 1990年 11月12日 - )は、スコットランド ・グラスゴー 出身でアイルランド代表 のサッカー選手 。セルティックFC 所属。ポジションはMF 。アイルランド系のスコットランド人である。
マッカーシーは、まずハミルトン・アカデミカルFC で公式戦100試合以上に出場した後、2009年に移籍金120万ポンド でサンダーランドAFC と契約した。代表としては、スコットランドに生まれながらも、アイルランド代表を選択しており、2010年3月3日に親善試合のブラジル 戦でA代表初出場、2011年3月26日にUEFA EURO 2012予選 のマケドニア 戦で公式戦初出場を飾った。
経歴
生い立ち
マッカーシー (2009年5月)
1930年代にアイルランド からスコットランド に移住した父を持つ母マリーとスコットランド人 の父ウィリーの下、4兄弟の末っ子としてスコットランドのグラスゴー に生まれ育つ[ 1] 。幼少のころからセルティックFC のファンだったこともあり、下部組織への入団を志していたが、既に多くの選手が在籍していたために叶わなかった[ 2] 。
クラブ
ハミルトン・アカデミカル
中学卒業後にハミルトン・アカデミカルFC でプロキャリアを開始し、2006年9月30日にスコティッシュ・フットボールリーグ・ファーストディビジョン (スコットランド2部)のクイーン・オブ・ザ・サウスFC 戦において、21世紀以降でクラブ最年少となる15歳で初出場[ 1] 、誕生日前日の11月11日にエアドリー・ユナイテッドFC 戦で初先発、2007年1月6日にスコティッシュカップ のリヴィングストンFC 戦で初得点[ 3] を挙げ、クラブ史上最年少となる16歳と55日での得点を記録した。
デビューシーズンながらも冬には、プレミアリーグ (イングランド1部)のレディングFC とリヴァプールFC のトライアルを受けた[ 2] マッカーシーは、最終的に不合格で残留することになったが、翌2007-08シーズンにはリーグの最優秀若手選手賞を受賞する[ 4] 活躍で昇格に貢献して契約を3年延長する[ 5] と、キャリア初となったスコティッシュ・プレミアリーグ (1部)の舞台においても活躍を見せ、2007-08シーズンのスコットランドPFA年間最優秀若手選手賞 (英語版 ) を受賞した[ 6] 。
ウィガン・アスレティック
エヴァートンFC での初得点を挙げるマッカーシー
2008-09シーズンの活躍によって、同リーグのセルティック、イングランド1部のバーンリーFC 、ポーツマスFC 、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC 、ウィガン・アスレティックFC からオファーをされ、2009年7月21日にウィガンと移籍金120万ポンド (インセンティブ最大300万ポンド)で5年契約を締結する[ 7] 。8月22日のマンチェスター・ユナイテッドFC 戦 (0-5)において74分から初出場を飾って以来、途中出場が続く中、2010年1月2日のFAカップ でのハル・シティAFC 戦 (4-1)において初得点を挙げる[ 8] 等でアピールし、1月16日のウルヴァーハンプトン戦において待望のリーグ戦初先発出場すると共にリーグ戦初得点も記録した[ 9] 。
翌2010-11シーズン は、開幕から先発を務める最高のスタートを切ったものの、2010年10月23日のボルトン・ワンダラーズFC 戦で相手のファブリス・ムアンバ に背後からタックルをされたことで深刻な足首の負傷となる[ 10] 。しかし、約3ヶ月後の2011年1月25日のアストン・ヴィラFC 戦において、先発で復帰を果たすと共に初得点を挙げる[ 11] 負傷を感じさせない活躍を見せており、2月5日のブラックバーン・ローヴァーズFC 戦 (4-3)においては2得点を挙げた[ 12] 。同月下旬のマンチェスター・ユナイテッド戦 (0-4)においては、前半早々にボールとは無関係の所で相手のウェイン・ルーニー から駆け寄られて肘打ちを貰うも、主審の判断は相手への注意のみにとどまり、ウィガン側のフリーキック で再開となった。この事件は議論を呼び、ルーニーとの衝突の際に倒れずに踏みとどまったマッカーシーの対応は賞賛され[ 13] 、同僚で主将のガリー・コールドウェル からも同様に賞賛されつつ、正直に倒れていた場合にはルーニーが退場となっていたとも言われた[ 14] 。
2011年8月23日にはクラブと契約を5年延長する[ 15] 。2013年5月11日にマンチェスター・シティFC を下し、クラブ史上初となるFAカップ獲得に貢献した[ 16] 。
エヴァートン
2013年9月1日にエヴァートンFC から移籍金1000万ポンドのオファーをウィガンに断れる[ 17] も、その2日後に移籍金1300万ポンドでウィガン時代に師事したロベルト・マルティネス 監督率いる同クラブにマルアン・フェライニ の後釜として契約する[ 18] 。初出場を飾ったチェルシーFC 戦で好プレーを見せる[ 19] と、シーズンを通して定位置を確保し、ギャレス・バリー と中央でゴンビを組んでクラブ史上最高となる勝ち点72獲得に貢献したプレーは、マルティネス監督に2013-14シーズン の間に自身の価値が倍増したと言わしめた[ 20] 。シーズン最終節のハル・シティFC 戦において、初得点を記録した[ 21] 。
2014-15シーズン は相次ぐ負傷に苦しむことになった。2014年11月27日にUEFAヨーロッパリーグ 2014-15 のVfLヴォルフスブルク 戦でハムストリングを負傷した[ 22] ことで、12月26日のストーク・シティFC 戦までの約1ヶ月離脱しており[ 23] 、復帰2試合目となった同月28日のニューカッスル・ユナイテッドFC 戦でハムストリングの懸念から前半終了後に交代となる[ 24] と、今度は2015年2月7日のリヴァプールとのマージーサイド・ダービー まで離脱していた[ 25] 。
クリスタル・パレス
2019年8月7日、クリスタル・パレスFC へ完全移籍[ 26] 。
セルティック
2021年8月3日、セルティックFC にフリー移籍で加入し、4年契約を結んだ[ 27] [ 28] 。
代表歴
アイルランド代表 でのマッカーシー (2013)
スコットランド に生まれながらも、祖父がアイルランド のドニゴール県 出身だったことでアイルランド代表 での出場資格があり、2007年の16歳の時にアイルランド代表としてプレーすることを選択する[ 29] 。その後、スコットランド代表 から幾度も誘われたものの、その都度アイルランド代表でプレーすることを強調した[ 30] マッカーシーは、U-17として2007年1月23日のイタリア 戦で初出場[ 31] 、3月のギリシャ 戦で初得点[ 32] を挙げて3試合1得点を記録すると、すぐさま、U-18に昇格し、11月にはドイツ 戦において初出場、同月15日の再戦で2得点を挙げた[ 33] 。なお、同年9月には、U-19としてポルトガル 戦において初出場を記録している[ 34] 。
U-21でプレーした後の2010年2月、ロンドン で行われるブラジル との親善試合に向けてA代表に初招集され[ 35] 、3月3日の同試合においてリアム・ローレンス (英語版 ) との交代で70分から初出場を飾る[ 36] 。2011年のウェールズ とのネイションズカップ (英語版 ) を前にして代表から離脱した行動により、議論の中心となる。今まで親善試合のブラジル戦のみにしか出場していなかったことで、FIFA の規則的に代表変更が可能となっていたため、スコットランドへ代表変更するとの憶測が呼び[ 37] [ 38] 、ジョバンニ・トラパットーニ 監督が今後もアイルランド代表でのプレーを確認する[ 39] も、なかなか沈静することはなく、2011年3月にUEFA EURO 2012予選 のマケドニア 戦において、ロビー・キーン との交代出場で公式戦初出場するまで論争は続いた[ 40] 。5月には、ネイションズカップにおいて北アイルランド と故郷のスコットランドと対戦する機会があったものの、クラブでの負傷によって全治1ヶ月の影響から招集を断っており[ 41] 、代表チームが同大会で優勝していたにもかかわらず、出場機会はなかった。また、UEFA EURO 2012 においては、メンバー23人に入る予定だったが、父親が癌と診断されたことで辞退している[ 42] 。
2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選 では、全10試合中9試合に出場したように中心選手としてプレーし、フェロー諸島 戦[ 43] とスウェーデン 戦でマン・オブ・ザ・マッチを受賞する[ 44] 活躍を見せたが、本大会 出場は叶わなかった。
個人成績
クラブでの成績
2017年5月26日現在
出典:[ 45]
代表での成績
出典:[ 46]
アイルランド代表
年
出場
得点
2010
1
0
2011
2
0
2012
6
0
2013
13
0
2014
2
0
2015
9
0
2016
8
0
通算
41
0
タイトル
クラブ
ハミルトン・アカデミカルFC
ウィガン・アスレティックFC
個人
脚注
外部リンク